「ひろしまの旅」の文集ができました

 

昨年7月に高1が、二泊三日の「ひろしまの旅」を行いました。

一日目は、全体講演、原爆資料館見学、碑めぐり。

二日目は小グループで被爆者の方からお話を伺い、午後は14ヶ所に分かれてフィールドワーク。

最終日は礼拝後に全体会を持ちました。それらのまとめと、一人一人の思いをつづった文集が2月中旬に完成しました。

 フィールドワークの訪問先の一つである清鈴園(せいれいえん)での経験は、夏休み明けの講堂礼拝でも報告されました。その原稿を掲載します。

 

  清鈴園の思い出

 私はひろしまの旅のフィールドワークで清鈴園に行きました。清鈴園は日本キリスト教団が第二次世界大戦の戦争責任告白として建てた老人ホームです。私たちは入所されている被爆者の方お二人にお話を伺いました。

 お一人目の方は八十六才で、ご自身でお話をされることが難しく、証言員の方が体験を代読して下さいました。「科学の進歩といっても人殺しの進歩はいや」という言葉が心に残りました。科学技術の発展をより良い暮らしのために用いるか、それとも人殺しのために用いるかは、私たちに委ねられているのだと心に刻みました。

 お二人目の方は九十六才、証言員の方のお話の後、ご自分の言葉で体験をお話しして下さいました。その方は「あわれ」という言葉を何度も使ってあの日を語りました。助けを求める人々があわれであわれでならないけれど、自分にはどうしてあげることもできない。お話を伺って、そのような無力感と苦しみは決して繰り返されてはいけないと強く思いました。

 七十四年が経った今も、あの日を思い出して心がうずいたり、夜も眠れなくなったりするとお二人はおっしゃっていました。

 貴重なお話を伺った後、私たちは三、四十人程の入所者の方に歌のプレゼントをしました。「花は咲く」と「にじいろ」。過ぎ去った過去は未来へつながっていく、前に進んでいこう、そんなメッセージを持つこの二曲は、清鈴園にぴったりだったと思います。私は入所者の方に明るい気持ちになってもらいたくて、一生懸命歌いました。歌い終わると皆さんが喜んで下さっていることを肌で感じ、私は胸が一杯になりました。

 その後で証言員の方が私たちに一つお願いをしました。昨年女子学院生に被爆体験をお話された方、ここではAさんと呼ばせて頂きますが、その方のために歌を歌ってほしいと頼まれたのです。昨年の歌のプレゼントをとても喜ばれていたから、そしてAさんはとてもお加減がお悪いから、と。

 Aさんはひとり静まりかえった部屋に寝ておられました。酸素マスクをつけ、証言員の方が語りかけても返事はありません。

 私たちはベッドを囲んで「花は咲く」を歌いました。花は、花は咲く。わたしは何を残しただろう。Aさんに歌が届け。

 すると不思議なことが起こりました。硬く固まっていたAさんの表情が次第に変わっていき、歌が終わる頃には柔らかく優しい表情で、笑顔も浮かべていたのです。

 言葉があるから伝わることは多くあります。しかし、言葉でないからこそ心に直接届くものがある。私たちが音楽という手段で贈った心をAさんは受け取って下さった。そして体全体で喜んでいる、幸せを表現してくれている。

 Aさんは私たちに、ありがとうという言葉以上の喜びを返して下さいました。

 歌の最後でふと顔を上げると、ベッドの向かい側で歌っていた人たちと目が合いました。すると私たちは自然と笑顔になりました。Aさんに歌をプレゼントできて良かったね、そう言っているようでした。私たちは、Aさんに歌を届けたいという一心で、声も心も合わせて歌うことができました。私たちにとっても幸せな瞬間でした。

 ひとりが幸せなとき、他のみんなが幸せである。みんなが幸せなとき、他のひとりが幸せである。

 私は平和とはこういうことではないかと思うのです。Aさんの満ち足りた表情は私たちの幸せでした。また、私たちが声と心を合わせることで、Aさんは笑顔になった。私は本当の平和にめぐり会ったのです、

 園の外まで、お話をして下さったお二人がお見送りに来て下さいました。お二人と握手をして、私たちは清鈴園を後にしました。その時に「平和な時代をたのむよ」と声をかけて下さいました。「平和な時代をたのむよ」果てしなく大きな想いを前に、私は戸惑ってしまいます。この想いに応えるために、私には何ができるのか、まだ分かりません。しかし、今回経験した平和な瞬間、あのような瞬間をひとつひとつ積み重ねていき、もっと大きな「平和な時代」という目標に、少しでも近づいていきたいと思います。

 清鈴園での経験全てが、私の宝物です。

 

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