標語聖句2008年度

女子学院の標語聖句は、その聖句の意味を生徒が1年の課題として考えるように、年度初めに院長が選んでいるものです。

2008年度の標語「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書 40章8節)

旧約の預言者イザヤの預言集として知られるイザヤ書は66章もあって、詩編を除けば聖書の中で一番章の数が多い書物です。そしてその中身は、北イスラエル王国の滅亡の少し前からバピロン捕囚の後まで、200年以上にわたる長い期間の出来事を扱っていますので、とても一人の人物だけの予言だとは考えられません。そこで普通このイザヤ書は3つの部分に分けて考えられていて、最初の1章から39章までがいわゆる「預言者イザヤ」の預言集で、40章から後は第2イザヤ、第3イザヤと呼んで区別しています。もっとも厳密に言えば時代的に前後する内容が混在していて、それほどきれいに分けられるものではないようです。

その第2イザヤの冒頭、イザヤ書40章は「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」という言葉で始まっています。39章までのところではなかなか神の呼びかけに応えようとしないイスラエルの民のかたくなさと、ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚が予言されるのに対して、40章からは神の民の苦しみの時が終わるという「慰めのメッセージ」が主要なテーマになります。それは心のかたくなな私たちに対する一方的な罪の許しの宣言と、それを受入れるようにという神の招きとして受け止めることも出来ます。その文脈の中で、この「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という聖句が登場します。

聖書の中で人間が草花のはかなさにたとえられている箇所はたくさんありますが、人の世のはかなさ、人の命のはかなさは、聖書に限らずどこの世界でも、いつの時代の人々にも実感として共有されてきた事柄でしょう。しかし聖書が人の世のはかなさに言及する時には、単にその無常を嘆くという悲観的、厭世的な姿勢からではなく、むしろそれと対比して決して変わらないものへの前向きの信頼がいつも意識されているように思います。草は枯れ、花はしぼむ、しかし神の言葉はいつまでも変わることがないという確固たる信頼です。人間も年とともに衰え、弱っていきます。それを嘆こうと嘆くまいと、それが私たちの現実です。しかし人の命は尽きてもそれがすべての終わりではない、というのが聖書の思想です。永遠に変わらない神の存在、神の言葉に大きな希望を見出すのです。パウロが言うように、「『外なる人』は衰えても、『内なる人』は日々新たにされ、見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」のです。

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