特設サイト 大関ちかの歩みをたどって
日本のナイチンゲールと呼ばれて
はじめに
女子学院の前身の一つである桜井女学校には、かつて看護婦養成所がありました。
はじめての修了生のなかに、大関ちかという人がいました。
ちかが生まれたのは風薫る5月。彼女の人生には、向かい風に顔をそむけて立ち止まってしまうときもあれば、追い風とともに力強く歩みを進めるときもありました。
ちかが導かれ、やがて切り拓くことになったのは看護の道。彼女が人生をかけた「看護婦」という職業は、現在では「看護師」と呼称されていますが、このサイトでは当時の呼称や職名に従って看護婦あるいは看病婦と記します。
ちかはキリスト教の信者、クリスチャンでもあります。看護婦であると同時に、キリスト教を世にひろめる伝道者としての顔も持っていました。看護婦になろうと決意したのも、病み苦しむ人を癒す神様の恵みの業を人の世で実践したいと考えたからです。52歳のときには仕事の時間を調整して、神学校に入学しました。
専門職としての誇りと神の御心に応えたいという志を胸に、医師と渡り合うほどの知識と技術を持ち、病人に寄り添うちかは、「いつか日本のナイチンゲールになる」人物とも評されるようになりました。指名で看護を依頼されることも多々あり、優秀な看護婦がいると名が上がると、市民向けの講演や執筆活動を依頼されるようになりました。当時は衛生という概念が定着していなかった時代。手洗いなど清潔をこころがけるよう呼びかけ、換気をすることや栄養と休息を取ることの重要性を説き、いつしか看護の世界だけでなく感染症対策の第一人者にもなっていきました。
その一方で、困ったことがあると恩師のところへ飛んでいって大粒の涙を流し、「ナイチンゲールではなく泣きチン蛙ではないか」とたしなめられる感情的な一面もありました。献身の実践が過ぎて入院費が払えない患者の肩代わりをすることもありました。多くの報酬を得ていたはずなのに常に借金を抱え、自身が経営する看護婦会は火の車でした。看護の対価として得た到来物はあちこちに配り、高価な物品が手に入ると質屋へ行って預けていたものを受け出してやりくりし、「金は天下のまわりもの」と言って笑っていたそうです。
聖書を胸に、看護服を風にはためかせながら歩んだ大関ちかの道。
看護と伝道に身を奉げた彼女の歩みをたどります。
はじめての修了生のなかに、大関ちかという人がいました。
ちかが生まれたのは風薫る5月。彼女の人生には、向かい風に顔をそむけて立ち止まってしまうときもあれば、追い風とともに力強く歩みを進めるときもありました。
ちかが導かれ、やがて切り拓くことになったのは看護の道。彼女が人生をかけた「看護婦」という職業は、現在では「看護師」と呼称されていますが、このサイトでは当時の呼称や職名に従って看護婦あるいは看病婦と記します。
ちかはキリスト教の信者、クリスチャンでもあります。看護婦であると同時に、キリスト教を世にひろめる伝道者としての顔も持っていました。看護婦になろうと決意したのも、病み苦しむ人を癒す神様の恵みの業を人の世で実践したいと考えたからです。52歳のときには仕事の時間を調整して、神学校に入学しました。
専門職としての誇りと神の御心に応えたいという志を胸に、医師と渡り合うほどの知識と技術を持ち、病人に寄り添うちかは、「いつか日本のナイチンゲールになる」人物とも評されるようになりました。指名で看護を依頼されることも多々あり、優秀な看護婦がいると名が上がると、市民向けの講演や執筆活動を依頼されるようになりました。当時は衛生という概念が定着していなかった時代。手洗いなど清潔をこころがけるよう呼びかけ、換気をすることや栄養と休息を取ることの重要性を説き、いつしか看護の世界だけでなく感染症対策の第一人者にもなっていきました。
その一方で、困ったことがあると恩師のところへ飛んでいって大粒の涙を流し、「ナイチンゲールではなく泣きチン蛙ではないか」とたしなめられる感情的な一面もありました。献身の実践が過ぎて入院費が払えない患者の肩代わりをすることもありました。多くの報酬を得ていたはずなのに常に借金を抱え、自身が経営する看護婦会は火の車でした。看護の対価として得た到来物はあちこちに配り、高価な物品が手に入ると質屋へ行って預けていたものを受け出してやりくりし、「金は天下のまわりもの」と言って笑っていたそうです。
聖書を胸に、看護服を風にはためかせながら歩んだ大関ちかの道。
看護と伝道に身を奉げた彼女の歩みをたどります。
ちかの略歴
1858年
0歳
5月23日(新暦)下野国黒羽藩の家老である大関弾右衛門・哲の次女として誕生
1868年
10歳
父・弾右衛門が家老を辞職
1876年
18歳
結婚
父が死去
父が死去
1877年
19歳
長男・六郎を出産
1880年
22歳
長女・シンを出産
離婚
離婚
1881年
23歳
上京
植村正度の経営する英語塾に通い始める
植村正度の経営する英語塾に通い始める
1886年
28歳
植村正久から「トレインド・ナース(訓練された看護婦)」になるための学校に入学するよう勧められる
1887年
29歳
桜井女学校付属看護婦養成所に入学
植村正久により受洗
植村正久により受洗
1888年
30歳
看護婦養成所を修了
帝国大学医科大学第一医院(現在の東大病院)外科看病婦取締となる
帝国大学医科大学第一医院(現在の東大病院)外科看病婦取締となる
1889年
31歳
1890年
32歳
『東京婦人矯風会雑誌』に「日本のナイチンゲールとなるであろう」人物として紹介される
第一医院外科医局長に看病婦の待遇改善に関する建議書を提出
第一医院を退職し、高田女学校舎監兼伝道師として新潟へ
第一医院外科医局長に看病婦の待遇改善に関する建議書を提出
第一医院を退職し、高田女学校舎監兼伝道師として新潟へ
1891年
33歳
高田で廃娼運動に参加
知命堂病院の看護長に就任
知命堂病院の看護長に就任
1894年
36歳
知命堂病院産婆看護婦養成所の講師を兼任する
この頃マリア・ツルーが看護婦養成所の設立を再度計画。実習の場として新宿に「衛生園」を建設
この頃マリア・ツルーが看護婦養成所の設立を再度計画。実習の場として新宿に「衛生園」を建設
1896年
38歳
マリア・ツルーの見舞いのため上京、マリアは4月に死去
高田を去り、上京。鈴木雅の経営する東京看護婦会(慈善看護婦会から改称)付属の講習所の講師となる
高田を去り、上京。鈴木雅の経営する東京看護婦会(慈善看護婦会から改称)付属の講習所の講師となる
1899年
41歳
『婦人新報』誌上で「伝染病看護法」を連載
『派出看護婦心得』を出版
「大日本看護婦人矯風会」設立。『看護婦人矯風会雑誌』創刊
『派出看護婦心得』を出版
「大日本看護婦人矯風会」設立。『看護婦人矯風会雑誌』創刊
1900年
42歳
長女・シンが結核のため死去
「東京府令看護婦規則」制定
「東京府令看護婦規則」制定
1901年
43歳
『婦女新聞』誌上に「ナイチンゲール嬢」連載
東京看護婦会を辞職するも、経営を鈴木雅から託される
東京看護婦会を辞職するも、経営を鈴木雅から託される
1904年
46歳
日露戦争大祝捷会に救護班として参加
日露戦争に出征した兵士へ贈る慰問袋づくりに尽力
日露戦争に出征した兵士へ贈る慰問袋づくりに尽力
1906年
48歳
衛生園と付属看護婦養成所が閉園。桜井女学校から続く看護婦養成所が約20年の歴史を閉じる
1907年
49歳
悪性リウマチで療養。療養先で『実地看護法』を執筆
1908年
50歳
『実地看護法』を出版
1909年
51歳
孫・一郎が誕生
「大関看護婦会」を設立。会員の看護婦はクリスチャンに限った
有力な看護婦会の同盟「大日本看護婦協会」も発足
「大関看護婦会」を設立。会員の看護婦はクリスチャンに限った
有力な看護婦会の同盟「大日本看護婦協会」も発足
1910年
52歳
東京神学社婦人科に入学
息子・六郎が死去
ナイチンゲールが死去(90歳)
息子・六郎が死去
ナイチンゲールが死去(90歳)
1912年
54歳
母・哲が死去
1915年
57歳
「内務省令看護婦規則」発足
1923年
65歳
関東大震災。大関看護婦会が焼失
1925年
67歳
植村正久が死去
矢嶋楫子が死去
矢嶋楫子が死去
1926年
68歳
NHKラジオに出演。シリーズ「家庭講座」で「看護婦と家庭」をテーマとする
1929年
71歳
脳溢血のため半身不随となる。川原貞を後継者とする
1932年
74歳
5月22日死去、富士見町教会で葬儀。青山霊園に埋葬された
ちかを支えた人物
桜井女学校(看護婦養成所)
こいけ たみ
小池 民
いけだ ねを
池田 子尾
桜井女学校
女子学院
桜井女学校を設立
植村家
うえむら すえの
植村 季野
中村屋
そうま あいぞう
相馬 愛蔵
ちかが学んだ桜井女学校
1870年、宣教師夫人のジュリア・カロゾルスが築地居留地の宣教師館で女子生徒数名に英語を教え始めたのが女子学院の始まりです。
1874年には隣の敷地で宣教師のマリー・パークとケイト・ヤングマンらも女子のための小さな学校を始めました。前者は通称「A六番女学校」、後者は通称「B六番女学校」と呼ばれることもあります。ジュリアは東京を去り学校を閉めることになりますが、生徒たちは名前と経営者、場所を変えた原女学校に引き継がれます。原女学校が閉校すると、生徒はヤングマンの女学校(移転して新栄女学校となっていた)に合流します。
1874年には隣の敷地で宣教師のマリー・パークとケイト・ヤングマンらも女子のための小さな学校を始めました。前者は通称「A六番女学校」、後者は通称「B六番女学校」と呼ばれることもあります。ジュリアは東京を去り学校を閉めることになりますが、生徒たちは名前と経営者、場所を変えた原女学校に引き継がれます。原女学校が閉校すると、生徒はヤングマンの女学校(移転して新栄女学校となっていた)に合流します。
マリア・ツルーと矢嶋楫子の姿が見られる
桜井ちかがマリア・ツルーと矢嶋楫子に運営を託した
1876年に桜井ちかによって設立されたのが桜井女学校です。桜井ちかは共立女学校(現在の横浜共立学園)で学び、日本人の手によるキリスト教主義学校を麹町に開設しました。英学の他、家事に関する科目も学ぶことができました。開設して5年、桜井ちかは夫の転勤に伴って北海道に旅立ちます。桜井女学校の運営を任されたマリア・ツルーは矢嶋楫子に校長を託し、桜井女学校はやがて生徒数300人を超える京浜地区で最も大きな女学校へと成長します。
当時は生徒も教師も多くが寄宿舎で寝食をともにしていました。看護婦養成所の生徒たちも同様です。当時の卒業生の回想録を読むと、大きな家族のように過ごしていた様子がうかがえます。日曜日には一列になってぞろぞろと教会まで歩いて通ったこと、実家の遠い者が冬休みに学校に残り、ときおり教師も交じって「猫部屋」(寄宿舎の部屋で猫を飼っていたようです)で裁縫をしたり小説を読んだり、それに飽きた誰かが長唄の真似などしだして、のんびりお正月を過ごしたこと。午後のプログラムをさぼってこっそり焼き芋を買いに行って戻ってきたら、見つかって叱られそうになってとっさにごまかしたのですが、慌てて食べた焼き芋はおいしくないし、買った焼き芋をつつんできた綿入れ羽織がいつまでもお芋くさくて参った、という10代の女子生徒らしいエピソードもありました。
桜井女学校と新栄女学校が1890年に合併して、校名を「女子学院」と改めました。桜井ちかが学校を開いて以来、番町を転々としてきましたが、現在地に校舎を構えたのもこの頃です。
当時は生徒も教師も多くが寄宿舎で寝食をともにしていました。看護婦養成所の生徒たちも同様です。当時の卒業生の回想録を読むと、大きな家族のように過ごしていた様子がうかがえます。日曜日には一列になってぞろぞろと教会まで歩いて通ったこと、実家の遠い者が冬休みに学校に残り、ときおり教師も交じって「猫部屋」(寄宿舎の部屋で猫を飼っていたようです)で裁縫をしたり小説を読んだり、それに飽きた誰かが長唄の真似などしだして、のんびりお正月を過ごしたこと。午後のプログラムをさぼってこっそり焼き芋を買いに行って戻ってきたら、見つかって叱られそうになってとっさにごまかしたのですが、慌てて食べた焼き芋はおいしくないし、買った焼き芋をつつんできた綿入れ羽織がいつまでもお芋くさくて参った、という10代の女子生徒らしいエピソードもありました。
桜井女学校と新栄女学校が1890年に合併して、校名を「女子学院」と改めました。桜井ちかが学校を開いて以来、番町を転々としてきましたが、現在地に校舎を構えたのもこの頃です。
新栄女学校と桜井女学校どちらにも関わり、女子学院を成立させるきっかけをつくったのは、マリア・ツルーです。マリアは「日本の女子教育は日本女性の手によって完成させるべきである」という信念を持っており、縁の下の力持ちの役割に徹しました。まだ教員としての経験が浅く、洗礼を受けたばかりであった矢嶋楫子を女子学院の初代院長に抜擢します。
マリアは講演で以下のような言葉を残しました。ちなみに通訳は峯尾えいが務めました。
「あなた方は女性としていかなる理想を持って生きるか。世俗的幸福だけを求めるのではなく、高尚なる志を活かす真の力を養成しなさい。自分のつとめを怠ったり、自分に力があるのに他を助けなかったとき、苦痛を感じるような女性になりなさい。一人ひとり、活かされる道や与えられた器は違うが、他人や社会のために働くように」
矢嶋楫子が桜井女学校の校主代理(現在の校長と理事長を兼ねた職)時代、校則は一条もなく、「あなた方は聖書を持っています、だから自分で自分を治めなさい」という言葉が生徒による自治を支えていました。
ツルーと楫子という2人の女性によって、いまでも続く女子学院の教育の土台が築かれました。そして、女子学院高等科の最初の卒業生の1人でもある三谷民子院長の頃に、女子学院の教育の在り方の方向性が定められました。
民子は「私共の学校には生徒を規則で縛りつけるような、『可らず』とか『すべし』などは一つもありません」と記し、他者との関係の中で「私」を見つめ、少しでも自分の生きる世界を良くしていくことを志す「1人の良き女性」を育てたいと語りました。
1920年、現在の大学教育に相当する高等科が東京女子大学に統合されました。以後、聖書の教えにもとづいて神様と隣人に仕える自立した女性を育てることを使命とした中学・高校6年間の一貫教育を行なっています。
マリアは講演で以下のような言葉を残しました。ちなみに通訳は峯尾えいが務めました。
「あなた方は女性としていかなる理想を持って生きるか。世俗的幸福だけを求めるのではなく、高尚なる志を活かす真の力を養成しなさい。自分のつとめを怠ったり、自分に力があるのに他を助けなかったとき、苦痛を感じるような女性になりなさい。一人ひとり、活かされる道や与えられた器は違うが、他人や社会のために働くように」
矢嶋楫子が桜井女学校の校主代理(現在の校長と理事長を兼ねた職)時代、校則は一条もなく、「あなた方は聖書を持っています、だから自分で自分を治めなさい」という言葉が生徒による自治を支えていました。
ツルーと楫子という2人の女性によって、いまでも続く女子学院の教育の土台が築かれました。そして、女子学院高等科の最初の卒業生の1人でもある三谷民子院長の頃に、女子学院の教育の在り方の方向性が定められました。
民子は「私共の学校には生徒を規則で縛りつけるような、『可らず』とか『すべし』などは一つもありません」と記し、他者との関係の中で「私」を見つめ、少しでも自分の生きる世界を良くしていくことを志す「1人の良き女性」を育てたいと語りました。
1920年、現在の大学教育に相当する高等科が東京女子大学に統合されました。以後、聖書の教えにもとづいて神様と隣人に仕える自立した女性を育てることを使命とした中学・高校6年間の一貫教育を行なっています。






