授業見学会が行われました

授業見学会が行われました◇

本校では、一昨年より中1の保護者の方を対象とした授業見学会を行っています。今年は7月1日(金)の5、6時間目に行われました。聖書、国語、数学、地理、歴史、理科、体育、音楽、英語などの授業を見ていただきました。当日はたくさんの保護者の方が参加され、生徒たちもいつも以上に緊張し、また張り切って授業を受けていました。理科 I の実験と、LL教室での英語の授業の様子を掲載します。
理科 I は、溶けている物質によって水溶液の性質がどのように違うかを調べる実験をし、炎の色が変わったところでは「きれい!」という歓声が上がっていました。
英語では、各自の机に備え付けられているモニターとヘッドフォンを使ってビデオを見た後、友達と英語でインタビューをしあいました。たくさんの保護者の方を前にしての発表は緊張したようですが、保護者の方からも拍手を頂き和やかな雰囲気で行われました。

◇生徒礼拝◇

女子学院では、学校生活の中での一番大切な時間として毎朝の礼拝を守っています。月・水・金は高校生が、火・木は中学生が、講堂でそれぞれ三学年の礼拝をしています。講堂礼拝の日以外は、HR礼拝や小講堂で学年礼拝を守ります。
礼拝は教師などが担当することが多いのですが、生徒が各種の修養会や、ひろしまの旅、ボランティアなどに参加した感想を話すこともあります。また、卒業を控えた高3の生徒に女子学院生活を振り返ってのお話をしてもらうこともあります。
最近の講堂礼拝から、ボランティア活動をしている中2生徒と、教会に通っている高1生徒のお話しをご紹介します。

中2

皆さんは、「いきいきプラザ」にどんなイメージを持っていますか?私は「いきプラ」という略称で呼ばれていて、学校からすぐ近くにある老人ホームだということしか知りませんでしたし、特にボランティア活動に興味を持っていた、というわけでもありません。むしろ私は、クラスで宗教委員が呼びかけをしていても、あまりまじめに聞いていなかったようなタイプの人間でした。そんな私がなぜ「いきプラ」へ行ったかというと、クラブ活動として、でした。
活動内容は、文化祭でやった人形劇をやることと、昔流行った古い歌を歌うことでした。私が知っている曲は「ふるさと」ぐらいしかなく、練習もあまりしていませんでした。はっきり言って喜んでくださるかどうか不安でした。しかし、私の予想に反して、お年寄りの方々は目をキラキラさせて聞いてくださいました。私はびっくりしました。
あなたは「老人ホーム」と聞いたら何を想像しますか。暗くて、話しかけても答えてくれない方ばかり、なんだか怖い、そういったマイナスイメージを持っている方も少なくないでしょう。
私には百歳をこえた曾祖母がいて、よくお見舞いに行っていたので、老人ホームが明るく清潔、気さくな方ばかり、とは知っていましたが、曾祖母以外の方とはあまり話をする機会がありませんでした。私はお年寄りがこんなにエネルギーに満ち溢れているのだとは知らなかったのです。私よりもずっと若々しい力のみなぎった瞳をして、耳を傾けてくださっている。歌にあわせ、口ずさんでくれる人、曲のリクエストをしてくれる人、一緒に歌おうと声をかけてくれる人。今までたくさんの苦労も努力も経験してきた、人生の先輩、というような人たちが私たちの歌を聞いて、嬉しそうに笑ってくれている、その姿だけで私は胸が熱くなりました。その上に、「また来てね」と声をかけてくださり、大感激でした。
話は少し変わりますが、私の曾祖母は今年の1月に106歳で亡くなりました。特に病気らしい病気もせず病院に入院することもなく、老人ホームで静かに息を引き取りました。大往生でした。曾祖母は生前、私たちがお見舞いに行くたびに「ありがとう」「ありがとう」と繰り返していました。私はその「ありがとう」の言葉を聞くだけで自分自身はたいしたことは何もやっていないのに、いつもとてもホッとして救われたような気がしました。曾祖母がなくなった今も「ありがとう」の言葉は、私の心の支えです。そして私は、「いきプラ」の方々の「また来てね」の言葉に、曾祖母の「ありがとう」と同じ安らぎを覚えました。「ボランティア」活動に行ったつもりが、いつの間にか私自身も癒されていたのです。
だから、どうぞ皆さんもボランティアを「やってあげている」とか「やらされている」なんて堅苦しく考えずに、自分のおじいちゃん、おばあちゃんに会いに行くような感じで気軽にいきプラに行ってみませんか。百聞は一見にしかず、です。きっと私がいくら言葉を尽くしても足りない、それぞれにとって素敵な“何か”が見つかると思います。

高1

皆さんはどうして教会へ行くのだろうと、漠然とした疑問を抱いたことはありますか。当初は私も多少戸惑ったりしていましたが、教会へ行くということは形式的に礼拝を守るためではないと、私は思います。礼拝後に生徒と先生で分級を持ってお茶会をしたり、友達と仲良くなったり、そんなことを繰り返すうちに、キリスト教を通じたくさんの人とつながるためという要素もかなり含まれているのではないかと考えるようになりました。
その頃から私は、教会でも学校でもお説教を聞く姿勢が変わったように感じます。今話してくれている人はどんな思いを私たちに伝えようとしてくれているのかが気になるようになり、自分の中で印象に残る礼拝、自分の心の中に残るような礼拝を経験するようになりました。学校の礼拝の中では、例えば昨年のアジア・エキュメニカル・ウィークの時に、中三だった私が中学講堂礼拝でうかがった市橋さら先生のお話。市橋先生はアフリカのケニアでご夫婦で幼稚園を二つ運営なさっています。一つは大統領の孫たちなどが通うキューナ幼稚園、もう一つはスラム街の子供たちが通うコイノニア幼稚園です。スラム街の子供たちには、朝着替えて幼稚園へ来ること、トイレの使い方などから教えていきます。家族の生活費のため日常的に売春をする姉を持つ子もたくさんいるそうです。一方で、キューナ幼稚園には同じケニアの中のスラム街についてまったく知らない子もいます。私たちもお話をうかがうまではほとんど知ることのなかった国際社会の実情でもあります。このような地球上での非常に厳しい現実に、私は衝撃を受けたことを覚えています。
教会でも、もちろん印象的なお説教を聞くことがあるわけですが、そのことを心に留め、日々を過ごす間でお説教をしてくださった方や関わった方々とのつながりによりさらに新しい世界を知るように発展することもあります。先ほどの市橋先生に関しても、先生がお書きになられた本と出会う機会が持てました。また、先生のご主人の講演会があるという連絡をある方からいただき参加させていただくこともできました。そのとき、自分は行ったことのない教会へ足を向けることで、こんな教会もあるんだという発見やその日行かなければ出会わなかったであろう方々との出会いもあって、新鮮でとてもうれしい気持ちでした。
たくさんの人と出会えるということは意味があり、またすばらしいことだと私は思います。それによって自分の生活や考え方がちょっと変る時もあるだろうし、自分を見つめるきっかけとなったりもするでしょう。人と出会うことはその人自身とつながりを持つことにとどまらず、もっと多くの人や出来事へつながっていくと思うのですが、そこにはやはり信頼関係が必要です。教会においてはより多くの人とつながることが可能だと思いますが、それは相手と信頼関係を築きやすいからではないでしょうか。どうしてそう考えるのか率直に言うと、私たち同士の間にキリスト教が存在しているからなのではと思います。みな、それぞれ神様に対し思いを持って教会へ集い、礼拝に参加し人と交わります。そこで生まれる絆というものは一度つながればそう簡単に切れるようなものでは決してないと思うのです。
また、教会へ行くことでほかの学校の友達を作るきっかけが生まれました。やはり学校によって授業体制や校内行事が異なるし、礼拝の時間や進め方、HR礼拝のやり方なども多少異なるわけで、そういった情報を得ることができると面白いです。もちろんキリスト教主義ではない学校の人もいますし、分級がお菓子を食べるお茶会になった時には学校関連やキリスト教関連の話題に限らず、いわゆるおしゃべりを展開します。友達の中には文化祭に来てくれた子もいました。
教会の中では、友達と一緒に教会行事も経験してきました。最近では6月12日の花の日礼拝が挙げられます。子供の日とも呼ばれるこの日、私の教会では礼拝中の聖書の朗読を中高生が担当することになっていて、私も中2の時に経験させていただきました。そして教会に集う人それぞれが様々な種類の花束を持ち寄ります。それらの花は礼拝が終わったあと、教会へ来たくても年齢や体調の都合や入院中で来ることのできない方々へ、私たちが持って訪問しに行きます。また、幼稚科から高校生までは、日頃お世話になっている人へ、とういうことで教会付近の消防署や交番、駅の事務室の方々へお花を持って行きます。私はその他に入院なさっていた先生の所へ訪問したこともありました。いつもお世話になっていることへの感謝を抱きながらであったり、相手の健康を願いながらであったり、訪問する私たちの気持ちはそれぞれですが、花を介してお互い和やかな一日を過ごすことができるのではないでしょうか。教会の行事にはこのように教会へ集う人たちの心をつなぐものが多くあると思います。
また、教会は礼拝中の聖書の箇所や、讃美歌や歌詞、お説教に対して、それから教会へ集う人たちの活動や考え方に対してなど自分の考えを自由に広げることのできる場だと考えます。根底にはキリスト教がありますが、ふだんの生活を多少の制限がある中で過ごす私たちにとって、束縛のない思考が許される場というものはとても貴重です。根底にキリスト教があっての自由な思考と言いましたが、それは最終的には教会や礼拝を通じ神様へとつながる思いだからこそ、自由であることが許されているのではないでしょうか。
友達と会ったり、いろいろな人に出会って自分の思考の枠を広げるため、そして礼拝を守るため、教会へ行く意味はそこにあるのではないかと私は思っています。

◇夏休み中の学校行事◇

中1 水泳教室
中2 御殿場教室〔修養会〕(於・御殿場寮)
高1 ひろしまの旅
高3 修養会(於・御殿場寮)

 

この他に、クラブの合宿や希望者による各種ボランティア活動が行われます。
9月に詳しい報告をいたします。

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