高校3年生の礼拝より

卒業を控えた高校3年生が「女子学院に学んで」という題で礼拝を担当しました。

 

讃美歌 30

聖 書 フィリピの信徒への手紙 1章 9~10節

 

「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」

 

『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)これは中学2年生の時、ごてんば教室(修養会)を前に読んだ課題図書です。女子学院での6年間を振り返るにあたって、この本を読み直しました。そして、とても驚きました。私が6年をかけて学んだと思っていたことのすべてが、女子学院生活の入口と言われる時期に、すでにこの本によって示されていたからです。

この本は、中学生の男の子コペル君が経験と思考を繰り返して精神的に成長する姿を描いています。その中で、コペル君のおじさんが彼に宛てて書いた文章が重要な位置を占めています。今日はその一部を引用しながら、私の女子学院生活についてお話します。

まず、この一文です。「肝心なことは、いつでも自分がほんとうに感じたことや、真実、心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだ。」

自分が何かを知って心が動いたとき、何を感じて心が動いたのか、突き詰めて考えてみることはとても大切なことだと思います。講演会や修学旅行の度に書く作文は、自分が何を感じ、考えたかを良く把握する機会になりました。私は作文に「もっと知らなければ」という感想を度々書きました。新しいことを経験するたびに、自分がどれだけものを知らないかを痛感しました。

 

女子学院では、興味を広げる機会がたくさん与えられたように感じています。講演会や、文理共通のカリキュラムによって広い視野を持つことができましたし、課題に取り組むことによって、自力ではなかなかできないような経験をしました。例えば、中学3年生の時、公民の課題として裁判を傍聴しました。その当時私は、「事件に全く関係のない中学生も傍聴をすることができる」ということ自体に驚いてしまうほど、裁判について何も知らなかったので、初めて裁判所の中に入ってとてもわくわくしたことを覚えています。その課題にはさらに、裁判に関する映画の鑑賞と書籍の要約も含まれていました。どちらも初めはとっつきにくく感じましたが、裁判所を実際に訪れて、腰縄をつけた被告人や検察官と弁護人の生々しいやりとりを見聞きしたことで、より現実味を持って取り組むことができました。

 

実際に体験したり深く考えたりすることは、将来の自分にとって大切な糧になります。言葉だけの意味を知ることと、その言葉によって表されている真理をつかむこととは、別なことだ、とコペル君のおじさんも言っています。表面だけの理解にとどまって満足してしまうのはとても危険なことです。例えば「戦争は悲惨だ」とか「命は大切だ」とか、そのようなことを実感を伴わずただ知っているだけでは役に立たないと思うからです。

高校1年生のひろしまの旅を初めとする他学年でも行う平和学習では、実際に戦争でひどい被害を受けた場所を訪れたり、様々な立場で戦争を体験した方や、様々な立場から平和を模索する方のお話を聞いたりすることによって、戦争と平和について多角的に考えることができました。

 

また、課題に取り組む過程で新聞記事をたくさん読みました。敬遠しがちだった社会派の映画やドキュメンタリーを見るようになりました。そのうち、教科書や日々のニュースでは知ることのない事柄も目にするようになりました。知ろうとしなければ知ることのできないような事柄に触れて、新しい視点を身につけることができたように思います。いろいろな人の意見を聞くことで多角的に物事をとらえるということは、非常に大切なことです。例えば、あるドキュメンタリー番組で見た、ベラルーシという国のことですが、ベラルーシは1994年からルカシェンコ大統領が政権を握り続けていて、欧州最後の独裁国家と呼ばれています。大統領は選挙で選ばれますが、選挙の度に不正が指摘されています。その独裁ぶりは尋常ではなく、「拍手禁止法」という奇妙な法律があるほどです。これは政治的な意見の表明を厳しく制限されている人々が、2010年、ルカシェンコが4回目の当選を決定づけた時、無言の拍手で抗議を行ったことから定められた法律です。しかし一方でルカシェンコの得票率はとても高く、国民の多くが現状維持を望んでいるといった、深刻さを否定するような情報もありました。本当はどういう状況なのか理解することは難しいと実感しました。偏った情報だけで知った気になってはいけないと思いました。

 

もう1つ『君たちはどう生きるか』から引用します。「このような世の中で、君のようになんの妨げもなく勉強ができ、自分の才能を思うままに伸ばしてゆけるという事が、どんなにありがたいことか。」

女子学院は自分の意見を述べる機会に恵まれ、人と異なる意見も尊重される環境があります。私自身、この環境に良い影響を受けていたと感じます。私は、自分の意見を主張することは苦手でしたが、友人の意見や堂々と意見を発表する姿には、たくさんのことを教えられました。このような環境はとても貴重なものです。先ほどのベラルーシの例のように、社会には自分の意見を言うこと、そして意見を持つことさえ許されず、言ったとしても誰にも届くことはない、そういう人たちもたくさんいるからです。

 

コペル君のおじさんは言っています。「苦しい境遇の中で働いている人々と、割合に楽な境遇にいる僕たちとは、日常まるでかかわりなく暮らしてはいるけれど、実は、切っても切れない編み目でお互いつなぎ合わされている。だから、僕たちがあの人々のことを全く心にかけず自分たちの幸福ばかりを念頭に置いて生きてゆくことは、間違っている。」

高校生になると、テーマそのものから自分で考えて作文を書く機会が増えました。私は、LGBT、情報格差、難民について書きました。情報格差は、インターネット普及率が8割であると知ったとき、残りの2割のことが気になってテーマに決めました。難民について調べたときは、当時話題だった、ヨーロッパに押し寄せるシリア難民を取り上げ、その中であまり注目されていないヨーロッパ以外のシリア難民や、シリア難民以外の「忘れられた難民」と呼ばれる人たちのことを知りました。作文を書いたときは、その都度自分の関心のむくテーマを選んでいただけでしたが、後から振り返ると、全体に共通する軸があることに気づきました。私は、女子学院で与えられる知る機会、考える機会を通じて、自然と世間で少数といわれる人々や虐げられている人々について、もっと知りたいと思うようになっていました。今では、ただ「知りたい」という思いから、多くの人に「知ってほしい」という思いへ移ってきています。

 

「そうはいっても」とコペル君のおじさんは続けます。「あの人々のことをただ不幸な人々、憐れな人々、同情してやらなければならない人々という風にばかり見ていたら、それは大変な誤りだ。」

この言葉を読み返したとき、創立記念日集会にいらっしゃった佐久間由美子(さくまゆみこ)先生のお話を思い出しました。佐久間先生は、アフリカの人たちがただ援助を待つのではなく自分でいろいろなことを判断していけるように、その土台としてアフリカに図書館を作る活動を行っている方です。講演では、「援助」という言葉よりも「協力」という言葉を実践するべきだとおっしゃっていました。私も難民とテロについて調べたとき、支援する側とされる側に自然に生まれてしまう上下関係が対立感情の元になっていると学びました。佐久間先生がおっしゃった「協力」を実践するためには、相互に理解し合える関係を築くことがとても重要だと思いました。

 

最後にもう1つコペル君のおじさんの言葉を引用します。「いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、ひとつひとつ判断してゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出てくる生き生きとした感情に貫かれていなくてはいけない。」

これは、女子学院が大切にしている「自由」の精神をまさに言い表していると思います。周りの意見や世間の大きな圧力や、自分の弱い心に負けることなく、歩む道を選びとっていくべきだということ。自分で自分を決定する力です。

 

今日お読みした聖書箇所は、パウロがフィリピの信徒たちのために祈る場面です。神様の愛を知り、神様が私たちに求めておられることを見抜いて、そこに自分の判断の基準を置く。そして本当に重要なことを見失うことなく、愛にあふれた生き方をする。パウロは、信徒たちがそれを実現できるように祈っています。矢嶋楫子先生の言葉に、「あなた方は聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい。」というものがあります。女子学院ではキリスト教を、「自由」を行使する時に指針となる揺らぐことのない確かな軸となりうるものとして学びました。正しくあろうとするとき、「神様の御心にかなうものであろうという信仰」のような絶対的な第三者の視点を持つことは難しいですが、とても大切なことだと思います。

 

 

祈祷

天にいらっしゃる私たちの神様。

今朝も、共に祈る時を与えてくださってありがとうございます。私たちの心や言葉や行いがあなたの前に正しいものでありますように、皆の一日一日の歩みを守ってください。

私たちの主イエス・キリストのお名前を通して祈ります。

アーメン

一覧に戻る