いい子と悪い子(高三修養会報告礼拝2)

7月16日(木)〜18日(土)、日本キリスト教団代田教会牧師の平野克己氏を講師にお迎えして高三修養会が行われました。9月16日(水)に行われた報告礼拝を2回に渡って紹介します。

 

~いい子と悪い子~

「いい子と悪い子、神様はどちらを愛してくださるの?」

この質問は、修養会で講師をしてくださった平野克己先生が園長を務めていらっしゃる幼稚園の卒業試験だそうです。答えられたら卒園、答えられなかったら幼稚園生活のやり直しとなる重要な質問に、私は当たり前のようにこう思いました。

 当然、いい子の方に決まっている。

 この時点で、私は代田幼稚園を卒園できないということになります。正解は、「両方」でした。私はこの答えを聞いた瞬間、呆然としました。それは、両方なんて選択肢があったのかという意外性によるものではありません。私は何も考えずに、無意識で「いい子じゃないと愛されないに決まっている」と思っていた。ああ、これが私の「枠」なんだ。私の枠はなんて狭いんだろう。そう打ちのめされたからです。

 ところで、「枠」とはなんでしょうか。平野先生の言葉をお借りすると、自分の物語、英語で言うとnarrativeのことです。人生経験で培われた判断基準、考え方、思い込みとも言えます。例えば、私はミステリー小説を読む時、一歩引いて物語を俯瞰すると言う癖があります。それは、大好きになったキャラクターが犯人だったとわかり、傷ついた経験があるからです。私たちは成長する過程で傷つくたびに自分の周りに枠を形成していくのだと思います。

 枠は私たちを守ってくれる。傷口を守り、生きるのを楽にしてくれます。そして、枠は私たちを閉じ込める。見えるもの、会える人、考えられる範囲を限定し、視野を狭めます。そして、じわじわと私たちを固定観念で縛っていきます。でも私は、枠を無理に越える必要はないと思っています。枠は私たちを守ってくれるということも、また事実だからです。

 しかし、「自分は枠の中にいる」と自覚した上で越えないことを選択することと、枠にそもそも気づかないこととの間には大きな隔たりがあるのではないか、とも思います。

 私には、相手の意見に自分を合わせる癖があります。自分の考えを無かったことにして、「私も相手と同じ意見を持っている」と思い込もうとするこの癖は、一種の自己洗脳と言ってもいいかもしれません。以前友達と話していたとき、いつものように「分かる、こういうことだよね」と相手の意見に合わせたら「え、そういうこと言ってるんじゃないんだけど」と返されたことがあります。そのとき私は自分の滑稽さを思い知らされ、大きなショックを受けました。私はこの経験と自分の癖を照らし合わせて、「他人のことはどうすることもできない」という事実に気がつきました。私が相手の意見と同化しようとするのはきっと、嫌われたくないし、相手に喜んで欲しいからです。しかし、私が相手の意見に合わせることで相手が喜ぶとも私が好かれるとも限らない。そもそも、相手の意見を完全に汲み取ることは不可能です。ということは、「意見を一致させて共感できるのが人を喜ばせることができるいい子であって、そうでないと愛される価値がない」という私を縛る枠は、そもそも存在しなかったのではないか。私がしていたことは、自分を押し殺して相手に価値基準を押し付ける一人相撲に過ぎなかったのではないか。そう思ったのです。平野先生は、信じることは枠を越えることだとおっしゃいました。今は枠を認識できただけで、完全に枠を越えられたわけではありません。まだ枠の中で安心していたいと思っている自分もいます。この枠を越えるには、まだまだ色々なことを経験して、たくさんのことを考えないといけないのだと思います。

 最後に、平野先生の言葉を引用したいと思います。

 「信じるとは思考停止のことではありません。考えて考えて考え抜いて、それでも確証が得られないものに自分を賭けることです。」

 だから私は、「私が私であることそれ自体に価値がある」

そう信じることができるように、生きていきたいと思います。

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