良く学び、長く教えた北村美那

朝日新聞で『夫を亡くして』が6月末まで連載されていました。直木賞作家の門井慶喜さんによる連載小説で、主人公は北村美那(門井さんの小説での表記は「ミナ」)。タイトルの通り、夫が亡くなった後の美那の人生を描いています。彼女の夫は詩人の北村透谷。島崎藤村らに影響を与えますが、妻と娘を遺して25歳で亡くなります。6年間の結婚生活でした。

「北村透谷の妻」と説明されることが多い美那は、どのような人物だったのでしょうか。女子学院の卒業生でもある北村美那(旧姓は石阪美那)が歩んだ人生について紹介します。

石阪美那(石坂ミナとも)は、1865年(1867年という説も)に現在の東京都町田市野津田に生まれました。石阪家は豪農で、父は多摩地方の自由民権運動の中心人物でした。民のために奔走した政治家として名を残しています。

 幼い頃から利発であった美那は、わずか11歳で親元を離れて東京の著名な私塾(日尾塾)に遊学します。美那は18歳までこの塾で学び、和漢学を修めます。漢文と和歌は良妻賢母の育成を目指す当時の女子教育の必須分野でした。師匠の日尾直子からの信頼も厚く、15歳のときには助教を務め、生徒ながらも下級生を教える立場に就いていたようです。儒教思想をしっかり学んでいた美那がこの後の人生で180度転換してクリスチャンとして伝道を志し、英学の道に進むのは少し不思議なよう気もします。

それはさておき、美那の一生は、透谷と結婚していた時期のわずかな間を除いてほとんどが、学ぶことと教壇に立つことに費やされています。透谷と過ごした期間は、すなわち娘の英(英子とも)幼くて物理的に母子が離れ難い期間と重なっているので、学問身を捧げた人生と言えるのではないでしょうか。

 石阪家に戻った美那には許嫁も決まっていましたが、横浜の共立女学校(現在の横浜共立学園)に進学します。美那の経歴ははっきりしないところも多いのですが、日尾塾を去ってすぐに進学したのではないようで、入学時の年齢は20歳を過ぎていました。

 美那は共立女学校でキリスト教に出会い、在学中に入信します。夫となる透谷も信仰の道に導き、透谷の心が迷っているときには聖書を共に読み、透谷亡き後は伝道を熱心に行ない、留学したアメリカでは神学を学びました。しかしながら、共立女学校入学当時はキリスト教に反発心があったようで、「英語を勉強するためだけに通った」と手紙に書き残しています。当初は葛藤があったにせよ、1886年に同じ学校の生徒らと共に横浜海岸教会で受洗しています。

 共立女学校では4年間学んだようですが、向学心の強い美那はまだ足りなかったのでしょうか。美那の手による履歴書によると、1889年に女子学院に進学、1891年に普通科を修了しています。その頃の女子学院は、ちょうど変革期をむかえています。桜井女学校と新栄女学校が合併し、現在も校舎がある土地に移ってきたのが1889年、矢嶋楫子を初代院長として「女子学院」が成立したのが1890年です。二度の校舎焼失を経験した本校は、戦前の記録のほぼ全てを失っているため、美那が在学していたことを証明する名簿等は存在しません。ただし、同窓会が発行している名簿に「北村美那」の名前があり、同窓会誌に美那が文章を寄せているのも確認できるため、卒業生であったことは間違いないと思われます。ちなみに、娘の英も女子学院で学んでいます。

 さて、美那が女子学院に在学中であった頃には既に結婚していたようです。共立女学校に通っていた頃休暇で戻っていた野津田の実家で3歳年下の透谷と出会いました。二人の出会いの場所を記念する碑が今もあります。やがて透谷も受洗、1888年に二人は結婚します。定職のない透谷と名士の娘である美那の結婚は石阪家に強く反対され、二人だけでキリスト教式の結婚式を挙げました。

 当時の透谷は、文学者としてまだ名を馳せてはいません。通訳や翻訳の仕事を請け負ったり、普連土女学校や明治女学校で働きますが、生活するに充分とは言えません。やがて透谷の精神は荒廃し、美那の救いも及ばず、1894年に自死します。

 夫を亡くした美那はどうしたか。町田の実家に帰ることはせず、2歳になっていた娘の英を透谷の父母に預け、親しくしていた宣教師宅に住み込んで伝道者として活動を始めます。4年余りの伝道生活の後、義父母に英を引き続き預けてアメリカに留学することを決めます。1899年、美那は34歳になっていました。

 語学研修を受けた後、インディアナ州のユニオン・クリスチャン・カレッジへ入学。5年間で英語の単科コースを修了、オハイオ州のデファイアンス・カレッジへ学びの場を移し、神学と音楽を学びます。美那はここで優秀な成績を修め、41歳のときにBachelor of Arts(文学士)の学位を得ます。

 遂に日本への帰国の途につくのかと思いきや、美那はさらに半年、シカゴとカナダで発音法等を学びます。「キタムラ」が転じた「キティ」という愛称で呼ばれ、日本からの留学生として珍しがられ、その人柄を愛された美那は1907年に帰国。父の死に20日ほど間に合わなかったことを知ります。透谷との結婚をめぐってできた父との溝は、埋まらないままでした。

 父を失った美那はぼんやりする暇もありません。「北村透谷の未亡人」が帰国したことで新聞や雑誌の取材が押し寄せますが、義父母に育ててもらっていた娘を引き取り、実母も呼び寄せ、自分を含めて3人が生活するために働かなくてはなりません自宅で英語塾を開き、やがて豊島師範学校(現在の東京学芸大学)の嘱託教師となります。

 豊島師範学校は、開校したばかりの男子のみの教員養成学校です。当時、女性教師は小学校にはいましたが、中等教育の教壇に女性が立つというのはとても珍しいことでした。袴の足元はハイヒール、本場仕込みの滑らかな英語を話し、授業中の厳しい姿とは一転して授業外では朗らかな態度で親しく声をかけてくれる美那は大変人気があったそうでした。

 豊島師範学校では14年教え、1923年には東京府立品川高等女学校に着任します。美那は58歳。1927年に同校は府立第八高等女学校(現在の都立八潮高校)と改称します。美那は72歳まで勤務を続けました。在勤中、叙勲を三度も受け、永年勤続者として東京府から表彰もされました。 

自宅での英語塾は晩年まで続け、日曜日は教会の日曜学校で教え、勤勉に働きました。女子学院とも関係の深い日本基督教婦人矯風会でも活動し、クリスチャンとして、教師として、生涯尽くしました。

1941年12月、真珠湾攻撃。親しい人々が今も暮らし、第二の祖国とも言える存在であったアメリカとの開戦に心を痛めていた、と家族が書き残しています。翌年4月、娘家族と住んでいた自宅で亡くなりました。

参考文献

江刺昭子『透谷の妻 石阪美奈子の生涯』日本エディタースクール出版部、1995年

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