春の修養会の報告礼拝が行われました

女子学院では毎年3月に学年を超えた有志で春の修養会を行っています。今回のテーマは「しあわせ〜あなたは今幸せですか?〜」で、西岡まり子氏(プリペアーエンリッチジャパン代表、日本ホーリネス教団川越のぞみ教会副牧師)を講師にお招きして3月23日〜25日に行われました。5月20日(水)高校講堂礼拝と5月21日(木)中学講堂礼拝で行われた、高校一年生の生徒と中学三年生の生徒の報告礼拝を紹介します。

 

高一生徒

他者と生きる中で、自分の幸せはどう叶えていけば良いのだろうか。人間が社会を作って生きていく生き物である以上、ずっと必ず誰かと関わることになる。だからこそ、自分の幸せを考えるうえで他者の幸せを考えるのはとても大事なことだ。今回の修養会を経て私が特に考えたのは、自分の幸せと他者の幸せについてである。

 人によって何に幸せを感じるかは違う。同じことをしていても、どの点において幸せを感じるかは違うし、幸せを感じた点が同じでも、その度合いは人それぞれだ。それ故に、自分の価値観のみを信じて動くと争いに発展することになる。それが自分や自分にとって大事な人の幸せを願って起こした行動だったとしても、別の誰かの幸せを邪魔することもあるし、すれ違いを生むこともある。そして、自分が考える幸せだけを見て走り続けた先に起こるものが戦争なのだと思う。そうならないために必要なのが相手に共感することだ。人間は自分のことを分かってもらったり、辛い気持ちを誰かに吐き出すことがきっと必要なのだと思う。自分に自信があって自分を物凄く愛しているなら話は別だが、生きている中で迷ったり心が折れそうになることは必ずある。そのときに、他者からの共感があると、これでも大丈夫なのだと思えて安心できる。平穏に過ごすために相手の言ったことを肯定するだけの「同調」でもなく、相手の環境や境遇を見て言う「媚び」や「同情」でもなく、共感は、相手を大事だと思っているからこそ生まれるものであり、それはお互いの幸せを尊重するという意味でとても重要なことだと思う。

 ただ、愛を持って共感していれば皆が幸せになるというわけでもない。前に言ったように、幸せの形は人によって違う。どんなに共感したいと思っても、分かり合えないことはある。自分だけでなく相手の幸せをよく考えて関わろうとすると、お互いが気持ちを妥協することもあるだろう。人を大事にしようとすると、我慢したり考えを変えるということは必要になってくるのだ。

 それをどんな相手に対しても向けるということは少なくとも私にはできない。他者と生きていくことと自分の幸せ、どちらも大事だからこそ難しい問題だと思う。これは今結論を出すというよりは、この先、生きていく中で、多くの人に出会ったり自分の幸せの形が変わったりしていく中で考えてみたいと思う。

 私は修養会でいろんな人の思う幸せを知ることができ、多くのことを、深く考えることができて本当に面白かった。私は初め、テーマから「自分の幸せ」について考えることが多かったが、自分とは違う幸せの形をもつ他者とどう関わっていくかは、多くの人、それも普段は関わることのない人とも話すことのできる修養会だからこそ考えることができたな、と思う。この修養会で様々な人と一緒に、分からないなりに考え続けたことは、これから先、生きていくうえで、自分の進む道やそこで見える景色を増やし、前よりずっと豊かにしてくれるだろう。そして、それを楽しんで進んでいけるということもまた、幸せなのだと思う。

 

「幸せは作らないで見出すもの」 中三生徒

「私は幸せです」と断言できる人に憧れていたし、羨ましかった。私は、今までずっと幸せか不幸か分からないところをさまよっていた。だが、今回の修養会に三日間足を運んだことで、私自身もそう思えるようになったかもしれない。

 今年度のテーマは、「しあわせ〜あなたは今幸せですか」というものだった。しかし、テーマを見て幸せとはの答えを明確に伝えられる人は僅かだろう。そして、人それぞれ価値観が異なるので、答えに納得できるかは別問題だ。例えば、「友達と出かけられるのが幸せです」という人がいたとする。聞いた友達も、「私も友達とのお出かけに幸せを感じます」と返したとする。一見この二人の言うことに変わりはないと考えるが、細かいところまで見たらどうだろうか。恐らく異なっている。前者の人は遊園地に行くのが幸せで、後者の人は公園に行くことに幸せを感じていたら、本当に同じ幸せとまとめてもよいだろうか。このように、幸せという語句の範囲は幅広く、今まで育ってきた環境、経験、価値観など様々な要因で何かしらの違いを有する。

 それでは、共同体で幸せを分かち合うのは不可能だろうか。これが全体会の議題として掲げられた際、大きな共同体だと感情の温度に差が生じてしまい、完全な共有は難しいという考えが多くあった。確かに的を射ていると感じるが、部活で一つの目標に向かって努力する時に共通の思いは生まれないだろうか。ここで、私が考えたことを一つ言いたいと思う。それは、幸せの共有は不可能ではないということだ。もちろん個々が思っていることは違うが、人間の感情は一つではないことを踏まえると、何かしら共通しているものはあると思う。その一部を「幸せ」と捉えることは有り得ることだと感じる。直感的に幸せの共有ができるのではないかと思い浮かぶのはそういうことだ。

 私は、講演会で講師の方がおっしゃっていた doing とbeing の考え方が印象に残っている。幸せになりたいと努力する doing と、幸せ=ありのままの私 が being である。そもそも頑張る行為には限界があるので、doing と being の両立が必要だ。being はキリスト教の神様の愛と似ているため、今までの環境などは関係がない。いるだけで大切という、セルフとアイデンティティーを認める being の幸せは、誰もが手にすることのができる、究極の幸せではないか。ここで最初に述べた共同体での幸せの共有も、being  なら完全な分かち合いが可能だ。今までの見方に左右されない存在肯定は、唯一無二の愛情・友情である。

 最近では若者の幸福度が低いそうだ。SNSの影響で他者と比較する。そして幸せをも比較してしまい、劣等感を覚える。私も含めた若者には、こう助言するべきであろう。

 「比べるという、価値観に縛られた見方をやめて、愛や絆など、見えない幸せに気づくべきだ」と。この答えを見つけたことで、私は周りを俯瞰して見ることができ、小さな幸せを発見することができた。そう、幸せはすぐ近くにたくさんあるのだ。だから、今なら言える。「私は本当に幸せです」

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