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「共に過ごす」と「共に生きる」(中二ごてんば教室報告礼拝1)

7月20日(月)〜22日(水),22日(水)〜24日(金)に、日本キリスト教団福光教会牧師の吉川光太郎氏を講師にお迎えして中二ごてんば教室が行われました。9月15日(火)に行われた報告礼拝を2回に渡って紹介します。

 

「共に過ごす」と「共に生きる」

 私はごてんば教室を通して、私が思っていた「共に生きる」は「共に過ごす」だったのだと気がつくことができた。そして今、「共に生きる」と「共に過ごす」の違いを考えてみると、「共に過ごす」ことは、「共に生きる」ことへつながるものなのかもしれないと思う。

 ごてんば教室が始まって二日間、講演を聞いたりプログラムに参加したりして、「共に生きる」には二つの種類があると知った。最初に思っていたのは、それぞれがお互いを見つめ合うことだが、二人が同じ一つのものを見ることで交わることも「共に生きる」ことであるとわかった。さらにそれに加えて、私はもう一つの「共に生きる」があっても良いのではないかと感じた。

 全体会の中で、「どうしても合わないと思う人がいるのはしょうがないことだ」という意見があった。私はその意見に納得し、その人に合わせるために自らの意思や信念を曲げる必要はないのだと思った。お互いを見ることも同じ方向を見ることも、どちらも人と人がどこかで交わっているが、そうではない、平行線のような交わらない関係も良いのではないか、無理に交わる必要はないのではないかと感じた。その中で少しだけ勇気を出して、平行線から垂線をおろして交わるように、手を繋ぐように、そっと交われば良いのだと思った。これが私の考えた三つ目の「共に生きる」だった。

 しかし、「本音を言い合えて、それを受け入れられる関係」が良いという意見が出て、私が考えた三つ目の無理に交わらない「共に生きる」は「共に過ごす」ことなのではないかと気がついた。私が考えたようにそっと小さく交わるのも良いが、ある程度踏み込んだ関係も良いのではないかと思うようになった。そして、小さく交わるにしても踏み込むにしても、どちらが正しいわけではなく、どちらも繋がっているように感じた。

 私がごてんば委員になったのは、中二になって何か新しいことに挑戦してみたい。誰かの役に立てるような仕事をしたいと思ったからだ。委員の中には初対面の人やあまり話したことのない人もいて、自分で委員をやろうと決めたのに、初めは委員会に行って意見を出すことに緊張してしまうことが何度もあった。だが、委員の仲間が積極的に意見を出してくれたり、些細な私の言葉を受け入れてくれたりしたことで、私も少しずつ意見を言えるようになって、みんなの意見を聞くのが楽しくなっていった。そして、委員の仲間との会話を楽しめるようになり、居心地が良くなった。初めは少しずつ意見を言うだけだったが、だんだん意見を受け入れたり言い合えたりするようになったのだ。これは、今まで同じ委員会の時間を「共に過ごす」だけだったのが、だんだんと意見を言い合い受け入れ合って「共に生きる」ことができるようになった、ということなのだと思う。

 まずは平行線の中で手を繋ぐように小さな交わりでも良いから「共に過ごす」。次に、本音を言ったり受け入れたりして「共に生きる」ことができるような関係を目指せば良い。これが、私がごてんば教室の中で考えた「共に生きる」なのではないかと思った。

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