2002年マグノリア祭報告

◇2002年度文化祭終了報告◇

10月12日・14日の2日間にわたって行われたマグノリア祭は、両日とも好天に恵まれ無事終了しました。2日間で1万数5千人を越える方に来ていただきました。
今年度のマグノリア祭では、校内スタンプラリーを新企画として設けました。スタンプを完成した参加者には図書委員制作JG特製のしおりを用意しましたが、小学生には大変好評でした。また、昨年に引き続き文化祭実行委員会企画の講演会も行いました。
女子学院生活をスライドで紹介してから、”未来のJGへのバトン”をテーマに院長・卒業生・在校生によるディスカッションを行いました。会場が満席になるほど多くの方にきていただきました。半年・一年と準備してきた各クラブ・同好会・個人参加団体はそれまでの努力が実り充実した2日間でした。

 

2002年文化祭

模擬店
高3では毎年模擬店の売り上げを、海外の子供の教育資金として送っています。
個人参加
クラブ活動も活発ですが、個人参加の展示なども多数ありました。

◇創立記念日集会◇

10月24日(木)、創立記念日を覚え中・高それぞれ講演会が行われました。

「隣り人になる」
阿部 春代先生(好善社社員、タイ国立コンケン感染症病院看護師)

「イスラーム世界から学ぶこと」
板垣 雄三先生(東京大学名誉教授)

■女子学院と三谷民子

三谷民子(1873~1945)は明治・大正期に女子学院の教師として矢島楫子を支え、1927(昭和2)年からは院長として戦前・戦中期の女子学院を守った人物です。三谷民子は矢島楫子に比べると社会的にはそれほど有名ではありません。しかし三谷民子の下で形作られていった女子学院のありかたは、今日の女子学院の根底になっています。創立記念日準備礼拝での歴史科教員のスピーチより、一部をご紹介します。

1.三谷民子の生涯

三谷民子は1873年(明治6年)に京都府与謝郡岩瀧町に生まれた。生家は造酒屋であったが、付近が丹後ちりめん縮緬の産地であったこともあり、父は生糸の取引もおこなっていた。折からの生糸輸出ブームと明治初めの文明開化、立身出世を求める風潮の中で、一家は民子7歳の時に上京し、民子は女子学院を第一回生として卒業した。この間、矢嶋楫子やミセス・ツルーとの出会いを通じてキリスト教信仰を抱くと共に、ミセス・ツルーの「精神をよく磨き、真に高尚なる志をお立てなさい。」という言葉に接して高い理想を持って生きる志を立てた。女子学院卒業後は新潟県高田にたてられたばかりの高田女学校に赴任したが、赴任後まもなく実家が生糸の取引で破産、また高田女学校も運営の行き詰まりから廃校に追い込まれた。民子はこうした経験を通じてキリスト教への信仰を深めていった。
東京に戻ってからの民子は、ミセス・ツルー亡き後の女子学院で英語の教師として教鞭をとった。教師として民子は単に知識を与えるだけでなく、人として何を学ぶべきかを生徒に問いかけたという。たとえば英語の授業では英文学の作品の世界に入り込むことで、人間の生き方について生徒の眼をひらかせることのできる教師の一人だった。
やがて三谷民子は矢嶋楫子から女子学院を引き継ぐ。楫子死後の1927(昭和2)年には院長に就任、その間も女子学院の教育水準を高めることに意を注いだ。そして院長在職のまま、1945(昭和20)年4月に世を去った。

2.三谷民子の思想

三谷民子は女子学院の教育水準を高等女学校として他の学校にひけをとらないものに高めると共に、学問的な知識を得る前提として、人間としての感情と、生活に根ざした常識と、信念とを持つ人間に生徒を育てようとした。民子は新入生に「装飾の為に学ぶのではなく、人として立つべき道を知る為に勉強するのだ」と語り、こうした女子学院の学風の中で生徒たちは学問をすることは真剣なことであることを学び取っていった。また民子は「前掛け主義」という言葉をとなえた。これはたとえばピアノのキーをあやつる手で家庭にあっては直ちに糠みそ桶に手を突っ込むことができるような、生活に根ざした態度・覚悟が必要であるという意味である。また民子は生徒たちを規則で縛るようなことをせず、生徒の気持ちをまず受け止めることに努めた。「女子学院はべからずをべからずとする学校である」とは民子の言葉である。
民子はまた教師として、読書を好み「先生らしくないタイプの先生」でもあった。彼女は新任の教師に「ここは良妻賢母を養成するなんて型にはまらないでね、もっと広い自由な立場でね、どこへ行っても役に立つ人を育てたいと思っているのよ。生徒たちはいい子ですよ。うんと勉強させてくださいね。」と語っている。そして「先生は聖人ではない、ですから許しあい、教え合って、はじめて全くなるべきものである。」と教師たちを温かい眼でみつめ、励まし続けた。こうした民子の言葉には、人間の弱さを受け止め、共に人として立つことをめざそうとする思いが込められている。民子は良妻賢母主義に基づく女子教育が主流だった戦前の女子教育において、良妻賢母主義を超えた、枠にとらわれない考え方の持ち主であった。
民子が女子学院を担っていた時期は大正から昭和戦前にかけての、日本が次第に一人よがりになり、ついには国内が狂信的な国家主義によって染め上げられてゆく時代であったが、民子は「明治の子」としての愛国者であったと共に、思想や国籍を超えて人間としての心の通い合いのできる人であった。朝鮮の三・一独立運動に参加して警察に追われる身となった留学生金マリアをかくまった時に語った「ここは学校です。金マリアは自分が正しいと信じたことをおこなっているのです。」という言葉や、日米開戦に際して「悲しいことにミス・ダーティは敵国人となられましたが、決して決して敵ではありません」という言葉は、民子の悲痛な思いと共に彼女の心のありかたを今日に伝えている。

3.三谷民子が問いかけるもの

近代の日本人はしばしば頭と心が分離してしまった人間だと言われる。戦前からの男性優位社会、そして忠君愛国の題目を上から押し付けた形式主義的教育は戦後の日本人の無責任さを生んだともいえる。そして三谷民子が生きていた時代も現代も、社会では専門的な知識や技術を持つことがエリートになるための条件として尊ばれ続けている。しかし民子が求めたのは専門知識を持つ以前に人間としての常識と感情を持った人間へと育てることだった。
三谷民子が問いかけた、生活に根ざした常識と信念を持つ人間を育てるという課題は、今日でも大切な意味を持っていると思う。私たちは何のために学ぶのか、学ぶとはどのようなことなのか、情報が氾濫している今日の社会で知識を身につけるとはどういうことなのか。大切なのは単なる知識や情報の量ではなく、何のためにどのようにして知識を獲得し、それをどのように用いるかということであり、三谷はこの問いを教師と生徒に投げかけ続けた人物だったといえよう。

参考文献 『三谷民子―生涯・想い出・遺墨』女子学院同窓会

「あなた方の中に、現在の生活から来るすべての圧迫をのがれて、自由を切望なさる方はありませんか。しかし幸いに希望する自由が得られて、天にも地にもただ一人、何をしようとも、一切誰にも関わりないとなった時、あなたは果たして、かねての望み通り幸福であり得るでしょうか。…空しいさびしさ、これは決して自由ではありません。…(そこで)あなたの自由を奪う人、あなたを束縛する人々が、必ずしもあなたの敵でないことがわかります。そしてこれらの人々を愛することによって、初めてあなたは真の自由に到達するのではないでしょうか。…妻を厄介者のように思う夫よ、親を重荷に感じる悲しい子達よ、仕事の圧迫に苦しむ人々よ、あなた方の重い責任と強い苦しみの上に、静かに温かい愛の心をおほひかけてごらんなさい。そこにほんとうの自由が生まれるでしょう。私たちはおたがいに、貧しくとも、弱くとも、生命のある生活を送りましょう。
…ただ愛の束縛の中に生きる者こそ真の自由であって、そこには不平も不満もありません。この愛に燃える向上心こそ、その人の生命ある生活と云うべきではありませんか。」

◇秋の遠足◇

10月25日(木)秋の遠足に行きました。好天に恵まれ、各学年それぞれ秋の一日を楽しんだようです。
中学3年は毎年、『原爆の図』を展示した丸木美術館に行きます。その様子をご紹介します。

丸木美術館を訪れて

夏休みに取り組んだ”戦争体験の聞き書き”では、戦争の無意味さ、戦後のむなしさを学ぶことができた。だが、今回の丸木美術館見学ではそれとは少し違った、戦争中に殺されていった人々の有様を初めて目の当たりにした。
丸木美術館の展示された戦争に関する様々な絵の中で特に目をひかれたのは「少年少女」「火」だった。
「少年少女」の絵の中に丸木美術館のパンフレットの表紙にもなっている、姉妹の抱き合う姿を見つけた。姉妹の服は焼けて無く、二人の回りには大勢の人がうめいている。その絵は結構大きく、人がたくさん描かれているのに私はなぜかその二人がすぐ目に止まった。やっぱり戦争という悲惨な状況だからこそ、家族の存在はとても大きなものになるんだろうなと感じた。

しかし、「火」という絵は全く対照的な絵だった。前の総合学習の時間に聞いた講演では鈴木伶子先生が、丸木夫妻が描いたそれぞれの絵について説明をしてくださったが、「火」についての説明はとても残酷なものだった。「火」は木造の家の柱の下敷きになった人々を描いた絵であり、その中には自分の子どもを見捨てて逃げた母親もいたという。それと似たような話が、国語で学習した『黒い雨』に出ていたことも思い出した。「火」という絵はとにかく真っ赤であり、よく見ると苦しんでいる人々が見えてくる。絵の中にはそんな深い物語が詰まっている。悲惨な状況になると、人はやっぱり自分のことしか考えなくなってしまうのか、親子という関係はそんなにはかないものなのかと考えさせられた。

“皮膚が垂れ下がる”だとか、”皮膚を引きずる”だとかは今の私には縁の無い表現で、そんなむごい表現をされてもあまり実感がわかなかった。「戦争はひどいもの」「後世に伝えていくべきもの」「二度と起こしてはならないもの」等、戦争を体験していない私たちでも、合言葉の様になっていて定着している。しかし、ただそれを合言葉の様に伝えていくだけでは、無意味だと気付いた。心から「戦争はいけない」と思えるためには、まず自分で惨劇を目の当たりにしなくてはならない。
「後世に、事実を伝えなければならない。生きている限り、伝え続けていきたい。」そう言って描き続けた絵を、無駄にしてはならない。丸木夫妻が描いた絵は、どんな講演を聞くより、どんなむごい言葉で伝えられるより、戦争を目の当たりにすることが出来ると思う。

◇日高理恵子(女子学院1977年卒)東山魁夷記念 第1回日経日本画大賞入選◇

「桜」1987年、120×240cm
麻紙に岩絵の具(女子学院蔵)

卒業生の日高理恵子さんが、日本経済新聞社が21世紀の美術界を担う新進気鋭の日本画家を表彰する目的で創設した「東山魁夷記念日経日本画大賞」に入選されました。
受賞作「空との距離I」について、日経新聞11月4日には以下のようにコメントされています。

日高理恵子は一貫して樹木とそれをめぐる空間をテーマにしてきた。木の下に立ち、垂直に見上げて描く。出品作「空との距離I」は過去の制作から一歩を踏み出したシリーズの第1作。遠近法ではとらえきれない距離感を、一枝一枝を見詰めることによって表現していきたいと語る。

尚、第1回日経日本画大賞展は、12月1日までニューオータニ美術館(東京・紀尾井町)で開催。

◇学校説明会のご案内◇

2002年 11月7日 (予約は締め切りました。)

2002年 11月12日 (予約は締め切りました。)

2002年 11月19日 (予約受付中)

朝8時10分までに講堂にご着席ください。
8時15分から、15分間の中学生の礼拝に一緒に出席していただきます。
8時40分から10時頃まで、説明会をいたします。

院長より

女子学院の教育

教務主事より

カリキュラム、授業のしかた、生徒指導、進路指導などについて
入学者募集要項、願書、報告書について
入学試験当日の時間などについて

中学担任(国語科、体育科)より

授業で目指すもの、生徒の様子について

事務長より

学校の設備、校納金などについて
受験料、入学金の納付について

 

◇2004年度中学入学試験日程について◇

2004年度の中学入学試験日を決定いたしました。

入学試験日:2004年2月2日(月)

 

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