最近の礼拝より

女子学院では毎年この時期に、卒業を控えた高3の生徒に、「女子学院に学んで」というテーマで講堂礼拝でお話をしてもらいます。高3の生徒は、6年間聖書にふれてきた中で心に残っている聖書の箇所、讃美歌を自分で選んで心をこめて準備します。聞く生徒たちも先輩のお話を毎回楽しみにしています。今回は2人のお話をご紹介します。

女子学院に入学してからほぼ六年が経ち、卒業まで二ヶ月を切る時期となってしまいました。今思えば、あっという間に過ぎ去った六年間でしたが、みなさんと同じ中学生の頃を思い出してみるとはるか昔のことのような気がします。
今回、このような機会が与えられましたが、みなさんの前で何をお話すればよいのか正直とても困りました。これといって目立ったことや特別なことを経験してきたわけではないからです。私のJG生活とは、「毎日登校しているうちに六年が経っていた」と言うのがふさわしいものだったかもしれません。
「自分を変えたい。」JGに入学したとき、強くそう思っていたのを覚えています。どうして自分を変えたかったのかというと、小学生までの私は親や学校の先生の言うことをよく聞き、言われたように動くだけのまるで機械のようなものでした。人からどう見られているのかどう思われているのかということが、どうしようもなく気になっていて、「自分」という存在を作り上げていたのです。そんな偽物の自分自身に物足りなさを感じて、それを満たすには今のままではダメだと思っていました。そして、ありのままの自分に自信を持って主張することのできる人になりたいと願っていました。しかし、結果から言うと私は自分を変えられませんでした。確かに他人の言うことを何でも聞き、それに従うといったことはなくなりましたが、そういう変化だけを望んでいたのではありません。変えられなかった理由は簡単なことでした。自分では「変える」ために何もしなかったからです。私はただ必然的なものとして「自分を変える」出来事がJG生活の中にはあるものだと信じていました。だからその決定的な瞬間が訪れるのをひたすら待っているだけだったのです。こうして私はJG生活の大部分を芯の無い、無難な方へと流されていくままの自分で過してしまいました。
ところが高校生になり、クラブや委員会での立場が変わっていくにつれて、話し合いなどで他の人の意見を聞いたり発言をするチャンスが増えて、徐々に受身の姿勢を変えるべき時へと達しました。
なかでも去年初めて参加した春の修養会は印象深かったです。私はそれまで修養会に興味はなかったのですが、同じく参加経験のない友人に「一緒に修養会委員やろうよ。」と誘われ、「どうせその頃にはクラブも引退していて暇だからいいか。」と軽い気持ちで委員を引き受けてしまいました。修養会委員会は秋頃から週に1回、中一から高二までの9人の委員と先生方で運営していました。毎回、皆で意見を出し合って準備を進め、テーマを決めることには特に時間をかけ、じっくりと考えて一つに絞りました。内心、二泊三日もあるのに一つのテーマでもつのだろうかと不安でしたが、そんな予想に反して当の修養会ではたくさんの発言が出されて嬉しかったです。JGのすべての学年が参加しているということもあり、中学生の意見や考えからは自分が成長してきた過程を振り返ることができました。また、JGでの学びを終えて卒業したばかりの先輩方や、普段の礼拝では聞くことのできない先生方のお話からは、これから通るかもしれない道を垣間見ることができ、有意義なものでした。
「友だちって何だろう?」というテーマのもとで行われたディスカッションや全体会でのひとりひとりの意見は、共通する部分はあるものの皆異なっていました。私にとっては皆がそれぞれ口に出して言うことのできる意見を持っているということ自体が驚きでした。それに比べて、いつも「なんとなく」で済ませてきたため、その場しのぎの考えしか持たない自分は、なんと薄っぺらくて中身の無い人間なのだろうと感じました。ちょうどその頃進路について考えていたこともあり、自分を生きていくのは自分なのだから、自分から動かなければ何も変えられないのだと気づき、自分について深く考えるようになりました。
私は何ができなくて何ができるのか。自分のやりたいことをするためにはどうすればよいのか。どうしてそれがやりたいのか。自分にとって大切なものって何だろう?
そんな時にふと思い浮かんだのが今日選んだ聖書の箇所です。「見えないものに目を注ぐ」。これは私が中一の時の標語で、初めて出会った聖句です。当時からこの箇所が礼拝などで扱われるたびに、「私にとって『見えないもの』ってなんだろう?」と考えてきました。物質的、経済的に非常に恵まれている中で育ってきた私たちはたくさんのものを所有しています。その豊かさのためにあまりに多くのものを見すぎていて、本当に大切なものの存在をないがしろにしているかもしれません。初めの方で、自分を主張することが大切だというようなことを言いましたが、今はむしろ、自分を持ちつつ、他の人の意見に耳を傾けることこそが重要ではないかと思います。というのも、私たちは一人だけで生きているのではないからです。
私を含めたJG生の中には「自立」に憧れ、自分の力で生きていきたいと思っている人は少なくないのではないでしょうか。しかし私たちが生きていくために自分一人でできることというのは、あくまで目に見える範囲のことでしかない気がします。
例えば、私はクラブを引退してから「日常生活の中で自分でできることはやろう」と思い毎朝お弁当を作ることにしたのですが、それは自分ひとりの力でやっているつもりでも、本当はそうではないのです。その食材となるものはスーパーで売っているものです。さらにスーパーで売っている野菜などは作っている人が別にいるのです。これは生活全般に関しても言えることで、要するに実は自立した生活とはいっても、多くの人に支えられて成り立つものなのだと思います。特に内面は人との関わりなしには成長することなどできないはずです。
人と関わることで自分に足りないものが分かり、自分らしさが見えてくると思います。聖書の示す意味からずれるかもしれませんが、「見えないもの」とは自分の心であったり、人の心であったり、こうした人とのつながりであったりと、見ようとすれば見ることのできるものではないでしょうか。「人とのつながり」は、私が大切だと思うものの一つです。これからも見えないものに目を注いでいる人でありたいです。
ここまで「自分」を中心に話してきましたが、私にとって女子学院とは、本当の自分を形成するのに必要なものを与えてくれるところでした。礼拝や授業やその他多くの活動からは、これからぶつかるかもしれない大きな壁を乗り越える力を得られたと思います。今まで触れませんでしたが、この六年間は良い友人にも恵まれとても幸せでした。困っているときにはアドバイスをしてくれたり励ましてくれ、嬉しいことがあったときには共に喜んでくれる友人、自信の無い私に対して「大丈夫だよ」と応援してくれる友人と出会えたことも、今の私を構成している重要な一部です。卒業して今後会うことが少なくなったとしても大切な存在であり続けると思います。
女子学院はひとりひとりを大切にしてくれる学校です。ここで六年の時を過ごせたことに感謝しています。

「女子学院に学んで」というテーマで礼拝を担当させていただくにあたって、女子学院での6年間を振り返ってみました。その中で、私が一番悩んだことはなんだっただろうと考えたところ、それは「素直である」ことは見方を変えれば「主体性が無い」ということになってしまうのだろうか、という疑問だったように思います。高1のみなさんはそろそろ、高2のみなさんは今まさに意識をしている頃だと思いますが、高校では自分で授業を選択しなければなりません。私は高1の頃くらいまでは、クラブやクラス劇、文化祭の活動などに打ち込んだり、友達と遊んだりと、特に何かを考えることなく過ごしていました。そして、テスト前になって必死に勉強を始めては、どうして授業中にしっかり理解するように努力しておかなかったのだろう、と毎回後悔していました。けれど、テストが終わってしまえばそんな気持ちは忘れてしまい、いつも勉強に対して「強制されてやっている」という意識でいました。しかし、高2になる際の数学の選択を始めとし、学年が上がるにつれ教科数が減っていく、ということを意識し始めた頃から、「もう今年が終われば、この教科を勉強することはないかもしれないんだ」という焦りに似た気持ちもあったのでしょう、だんだんと授業をちゃんと聞こうという意識が芽生えてきました。そして、嫌々やっているという先入観を捨てて授業を受けていると、素直に興味が湧き、「この事についてもっと知りたいな」と思えることが出てきたのです。というよりは、それまでにも興味を持てるものはたくさんあったのですが、「やらされている」と思って文句ばかり言っていたことでその気持ちに気づけなかったのだと思います。そんなふうに授業や勉強に対してずっと受身でいた私には、興味がわいてくるという感覚がとても新鮮で楽しく、自分自身のその感覚を大切にしようと思うようになると、授業に対しても自然と素直になることができました。
私は「失ってからそのものの大切さに気づく」という経験を何度もしてきました。「失う」という表現は少し大げさかもしれません。例えば小学生の頃、私は小学校での生活に不満しか抱いていませんでした。でも、女子学院に入学してから小学校のことを振り返ってみると、「一体私は小学校の何がそんなに嫌だったのだろう」と思えてきたのです。それどころか思い返せば思い返す程楽しいことばかりが思い出され、「どうしてあの時文句ばかり言って、素直に楽しもうとしなかったのだろう」と本当に後悔しました。クラブに対しても、あの時もっと意地を張らずにもう少し頑張っていたらな、と思うところがたくさんあります。そんな「今」という時間を大切にしなかったことを後から悔いるという失敗を幾度となく繰り返し、その度に自分はなんて進歩のない人間なのだろうと落ち込むものの、その反省がまったく次につながっていませんでした。だから、「今」目の前にある授業に対して素直になれるという、自分自身の姿勢の変化に満足していたのです。
しかし次第に、そんな自分の姿勢は「素直」であることに固執しすぎ「自主性」を見失っているのではないか、という疑問にぶちあたるようになりました。高3の授業の選択を前にし、私はなるべくその選択肢を減らさないように、先生の言うことをできる限り吸収しようと必死でした。けれども、まわりのクラスメートが頻繁に質問しているのを見ると、自分の今の状態は「納得」で終わってしまっていて、なんだか流されているように思えてしまったのです。確かに「素直」であろうとすることで、いつのまにか自分自身を縛っていたということも否めないと思います。またこの頃から、具体的な将来の夢が定まっていないことをとても不安に感じるようになりました。そうして今度は、もっと主体性を持って生きなければと思うようになり、無理矢理に将来の職業を考えたりもしました。けれど考える先からしっくりこず、焦るだけの毎日が続いていきました。
そんな閉塞状態を脱出するきっかけになったのが、修養会の全体会の前に先生がおっしゃった「これは答えを出すための話し合いじゃないんだよ。」という言葉でした。私はそれまで、自分の疑問に対して何か堅固たる答えを考え出し、それを貫かねばと無理をしていたのでした。でも、そもそも答えなど出す必要はなく、まして過去の考えに縛られることなどは愚かなことです。大切なのはそのときの自分の疑問にとことんまで付き合うことなのだと、悩んだり落ち込んだりすることを肯定的に捉えられるようになりました。
「素直である」とは、自分自身の疑問や不安に対していつでも敏感であること、「主体性を持って生きる」とは、その疑問や不安にいつでも誠実に向き合っていくことなのではないかと思います。「素直である」とは決して流されることではありません。「主体性」とは、決して「ブレない」ということではありません。一見、ブレないで生きていくことはものすごく強いことのように感じられます。今の社会でとても大切にされていることも確かです。自分の考えを「変える」ことはあまりよいことだとはされないような気がします。けれども、“I was born”というように人間とはそもそも受動的な存在なのではないでしょうか。もちろん流されることに甘えてはいけません。しかし、まずはそれを認めて、そこに立脚しなければいけないのではないかと私は思うのです。私はクリスチャンではありませんし、礼拝の時間を大切にしたと言えるのは高3の1年間くらいです。でも、この人間の受動的な側面を肯定的に受け入れられるようになったのには、礼拝や聖書の存在が大きいのではないかと思っています。
つねに現れる不安や疑問を受け止めて対処していくことには、労力も必要です。しかし、だからこそ大切なことなのだと思います。これからも焦って焦ってしょうがないことや、不安で不安でたまらないことがあるでしょう。そんな時無理に答えを出して自分を納得させ、自分を縛ってしまう方が楽なのかもしれません。それも困難を乗り越えるときには必要なことなのかもしれません。けれども私は、どんな時も、「今」自分が感じていることを真摯に受け止め、とことんそれに付き合っていきたいと思います。そして、「今」私がこのように考えていることとは違う考えを持つこともあるでしょう。その時にもその変化を受け止め、いつでも自分の「今」に誠実であれたらと思います。

中3クラス劇

1月28日(土)、講堂にて中3クラス劇の発表会が行われました。生徒の感想や、ポスター、準備や当日の様子をご紹介します。

クラス劇がこんなに大変だとは思っていなかった。本番前は毎日放課後は必ず練習で、2週間前くらいからは部活にも全く出られなくなった。本番直前で特に大変だったのは、シンデレラのドレスのスパンコールつけだ。朝・昼・放課後はスパンコールつけに追われる日々で、前日は徹夜かと思うほどだった。しかし、こんな私達を見て手伝ってくれる人がいた。「朝来て手伝ってくれる人!」と聞くと「はーい!」と進んで答えてくれた。本当にうれしかった。そして何より衣裳の係じゃないのにドレスを作ってくれた演出さんに心から感謝したいと思った。
当日私はセリフなんてたった一言二言しかないのに、とても緊張していた。そんな私に緊張をほぐす呼吸の仕方を教えてくれた人もいた。しかし本番は焦り、緊張などから来るハプニングがたくさんあった。それでもみんながフォローしあって最後まで演じることができたことは、ひとつの自信になったと思う。クラスのみんなでひとつの劇を作り上げた時間は最高によかった。

教室に戻って「お疲れ様!」の声がかかると拍手が起こった。みんな笑顔だった。私はこのクラス劇に対して、やる気のあるときもあれば、ない時もあった。だから、何となくやっていた、というのが正直なところだ。しかし、あの時は私もみんなと一緒に笑顔になれた。ハプニングはあったものの、それ以上に私は、泣いてくださったお客さんがいること、何より笑って終えられたことがうれしい。大成功だと思う。「やっても無駄」なことはきっとないのではないかと思う。それが誰かに伝われば。それが誰かを変えられるのなら。
最後に、このクラス劇を通してクラスがまとまった気がする。このクラスが好きになれた。

初めのほうこそ一人一人に温度差があったものの、最後には本当に皆が一生懸命になっていて、それがうれしくてたまらなかった。終わった達成感。完成した充実感。皆で同じ気持ちを共有できることがこんなに気持ちいいとは。

今までキャストしかしたことがなかったが、衣裳のメンバーがとても優しくて面白くて、毎日毎日が楽しかった。充足感に満ちていた。妖精のパックの衣裳が完成した冬休み最終日は本当に感動した。一枚の布がこんなに可愛らしいものになれるなんて知らなかった。また、衣裳を演出やクラスメイトにほめられるたびにうれしくて心が躍った。頑張ってよかったと心底思えた。これからもう練習風景が見られないと思うと悲しくてたまらない。

資料室より

青山霊園外人墓地その後
2004年10月に、青山霊園外人墓地にあるミセス・ツルーを始めとする、女子学院ゆかりの3名の宣教師の墓に、立て札が立てられ、ご心配された方々から連絡を頂きましたが、(JGニュース2005年2月参照)その後、いくつかの新聞でも取り上げられる等、公にも反響がありました。
東京都も検討を重ね、昨年10月に改葬しない等の条件付ですが、学校法人でも承継ができることとなり、2月14日付で正式に手続きが完了しました。だいぶ時間がかかりましたが、無事お墓を承継できるようになりましたので、ご報告いたします。

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