高校3年生の礼拝より

卒業を間近に控えた高校3年生が、女子学院での6年間の学びを振り返って礼拝を担当しました。中学生に向けて語ったお話をご紹介します。

讃美歌: 312番
聖 書: コヘレトの言葉 11章9~10節
若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。
青年時代を楽しく過ごせ。
心にかなう道を、目に映るところに従って行け。
知っておくがよい
神はそれらすべてについて
お前を裁きの座に連れて行かれると。
心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。
若さも青春も空しい。

「棚からぼた餅」ということわざは私の好きなことわざの一つなのですが、もし本当に落ちてきたとしたら、べちゃっとつぶれて食べるどころではなく、むしろ掃除する手間が増えてしまうように思います。棚からぼた餅が落ちてきて幸せな人というのは、常に受け止める皿を持ち歩き、落ちてきた餅に機敏に反応できる人なのでしょう。以上が最近ふと思ったことです。そして思うのは、JGでの学びの間に、いったいいくつのぼた餅を、皿の準備不足と自分ののろまさで無駄にしたのだろうかということです。
私にとっての青春であったJG生活もあとひと月と少しで終わろうとしています。正直にいうと、中学生の頃の記憶はあまりありません。小学校6年生の3月に東日本大震災を体験し、不安の中でJGに入学したものの、特に深い悩みも持たず、ただ友人たちと楽しく生活していました。きっとその時々では色々と考えることもあったのだと思いますが、今となっては何も思い出せません。
そんな私にも6年間で変化がありました。わかりやすいところでは、一つは理系の進路を選択したこと、もう一つは長く働き続けたいと思うようになったことです。これらは私が受け止められた数少ないぼた餅です。
小学生の時の得意科目は国語と社会。とにかく算数が苦手で、理科も理科Ⅰや高校の物理へとつながるような分野はちんぷんかんぷんで、入学後も自分はきっと文系に進むに違いないと思っていました。しかし、いつからか理系女子への憧れが芽生え、理系教科の授業をいつもよりしっかりと聞いていたところ、意外にも授業についていけている自分に気がつきました。根拠のない自信をつけた私は、結局高2の時に理系を選択しました。数学はいまだにあまり得意ではありませんが、物理は好きな科目になりました。
また、私は母が専業主婦だったこともあり、ぼんやりと、将来は働いても、結婚し出産したら仕事はやめようと考えていました。中3の時の個人面談では将来の夢を聞かれて「主婦」と答えた気がします。しかし、友人たちが将来への高い志を持っていることを知り、礼拝や講演会、JGの先生や卒業生の話を聞き、そして自分にもようやくやりたいことが少し見えて来た頃、出産するまでとかいうことではなくて、自分が納得するまで仕事を続けてみたいと思うようになりました。私にとって、どちらの変化も思いがけないものでした。
しかしその一方で、恥ずかしい話ですが、この6年間で落としてしまったぼた餅もかなりあるのではないかと思います。本当はもっとたくさん落ちてきていたのに、面倒だから、無理だからと取りに行かなかったのです。クラブの朝練も頑張って続けていればよかった。大学入試で使わないからと手を抜いてしまった教科も真剣に頑張ればよかった。クラブで幹部学年となった時も実はもっとできることがあったのでは……思い返せばきりがありません。JG生活での唯一の後悔は、すべてに全力を尽くそうともしなかったことです。
さて今回選んだ聖書箇所は高3でのホームルーム礼拝で友人が選んでいた箇所で、JGでの楽しく充実した日々を肯定されているようで良い気持ちになったことを覚えています。お話をさせていただくにあたって、コヘレトの言葉を全部読んでみたところ、イメージとは違っていたものの、改めて皆さんとこの箇所を読みたいと思いました。コヘレトと呼ばれる智者は人生の意味を求めて、観察、研究、思索を重ねますが、全てを理解することはできず、心の平安も得られませんでした。そこで今度は快楽を追求しますが、やはり理解はできず、感じたのは「空しさ」でした。コヘレトの言葉では空しいという言葉がたくさん出てきますが、読んでみて不思議と自暴自棄な感じや厭世的な感じはしませんでした。むしろ空しさに気づいたコヘレトは神に心を向けて生きようとしているように感じました。今の私にはまだ難しく解釈しきれない部分もたくさんありますが、私たちは人生の空しさについて感覚的に理解している部分があるのではないでしょうか。また、若さや青春も限りあるものであることに気づいています。だからこそ、今を全力で走り抜けたいと思うのです。
進路について考えなくてはならなくなった頃の私は、人生を見渡せるほどの大きさの紙に見立て、何か選択をするたびに、その紙がはさみで切り取られていき、次第に小さくなっていくような感覚を覚えていました。しかし、人生が見渡せるほどの大きさの紙であるわけがなく、また選択することは必ずしも他を切り捨てることとイコールではないと思うようになりました。皆さんにはJGでの学びの時間がまだたくさん残されています。中1の人はまだ入学して10か月。中3の人もこれからより充実した高校生活が待っています。私が思うより、そして皆さんが想像するよりずっと大きく、未来の可能性は広がっているはずです。ぜひその可能性を狭めるようなことはせず、JGで楽しみ学び尽くしてください。  私は「これが将来いったい何の役に立つのだろう」というせりふをよく口にしていた気がします。これは私が何かをさぼろうとする時の、おまじないのような言い訳でした。この場合の「役に立つ」とはどのような意味でしょうか。大学に入るのに有利に働くことでしょうか。就きたい職業で必要とされることでしょうか。冷静に考えれば、どんなことだって自分次第で有意義なものとすることができるし、そもそも自分の将来が思い描いた通りに行くかもわからないのに、どうして自分に必要がない、役に立たないと切り捨てられるでしょうか。そして何より役に立つとか立たないかなどは抜きにして、目の前にあるチャンスもちょっと遠くにあるチャンスも全部もぎ取ってやるぞ、くらいの心意気が青春にはぴったりだと思います。この心意気がきっとぼた餅を受け止める皿となり、反応する機敏さとなるのだと思います。  いつ、どこに、ぼた餅が落ちてくるのか。それこそ神のみぞ知り得るのかもしれません。皆さんにたくさんのぼた餅が与えられることを信じて、JGでの学びが楽しく実り多いものとなることをお祈りしています。

≪祈祷≫
神様、今日も新しい朝を礼拝をもってはじめられることに感謝いたします。どうか中学生の皆さんが、JGでの日々を全力で過ごし、走りぬくことができますように。また、ここに集うことができない者、特に高校3年生のことを覚えます。皆の健康を守り、それぞれに合った道を与えてください。今日1日を安全に豊かに過ごせますように。このお祈りを尊き主イエス・キリストの御名によって御前におささげ致します。 アーメン

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