卒業礼拝が行われました

2021年3月16日卒業礼拝で、小倉義明先生(前日本基督教団使徒教会牧師・女子聖学院中学高等学校元校長)が「必要なことはただ一つ」と題してお話しくださいました。

 

ルカによる福音書       第10章38~42節

38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 

さて、先程お読み頂いたTextをもう一度目で追いながら、お聞きください。

マルタとマリヤの姉妹は、主イエスを迎えて家庭集会を開いていました。

「マルタはいろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(10:40a)

多分、お台所で食事かお茶の準備をしていたのでしょう。やらねばならぬことがたくさんある、集会が終わるまでに間に合うかしら。ところが、妹のマリヤときたら、さっきから「イエスさまの足もとに座って、その話に聞き入っている」(10:39)。あの子は私にだけせわしない思いをさせて何とも思っていないのかしら―そう思うと、マルタは怒りさえ覚えました。イエスさまもイエスさまだ。ついに彼女は主イエスに向かって不満をぶちまけるのでした、

「主よ、わたしの姉妹はわたしにだけもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(10:40b)。主はお答えになった「マルタよ、マルタよ。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリヤは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10:41f)。

ここを読んで、私たちの多くは、マルタに同情します。主イエスは、マルタの苦労を顧みず、マリヤの方に肩を入れている、と。そうなのでしょうか? いいえ、違います。

主イエスはマルタを叱り、マリヤの方が偉いと人物評価をしているのではありません。主はマルタの不満と怒りを静めるように「マルタよ、マルタよ」とくり返して呼びかけておられます。「あなたは多くのことに心を遣って思い煩っているね」と。これは思いやりのこもった語りかけではないでしょうか。主は<心の持ち方、心の在り方>について諭されておられるのです。

そうです、私たちはやらねばならないことが多く、常々イライラします。<多忙>の忙という字、立心偏に亡(うしな)うという字ですね。これは忙しいと心を亡うという事情を示唆しているでしょう。だから、主イエスはマルタに諭されたのです、「良いことのためとは言え、忙しさのために心を亡うようであってはならない。忙しい時ほど何がより大事なことかを考え、その大事なことに心を傾けることが必要なのだよ」と。

現代はsocial rapid change(急速な社会変動)の時代です。では、かくも急速に社会を変化させているものは何でしょうか。

<情報>です。モノ・カネ・ヒトを情報が取り囲んでいます。

情報が重要であることは、申すまでもありません。今日は、「情報社会」と言われるほどであります。しかしながら、すべての情報が重要だとは言えますまい。さして重要でない情報、間違った情報、悪しき情報、fake newsもありますね。

だから、情報を<選別・選択>する必要があります。情報の真偽・重要度を判別することが重要になります。

では、その情報を判別するものは何でしょうか。情報を判別し、有益な情報を使いこなす力は、情報そのものの平面からは出て来ません。その力は、情報の次元を越えるような高い知識であると言ったのは、ハーバード大学のダニエル・ベル教授です。彼の『知識社会の衝撃』は1995年の刊行ですが、深い見識に満ちた本で、今なお私たちの眼を開いてくれます。

だが、驚くべきことに、価値判別する、より高度な知識の重要性については、聖書が既に強調しているのです。

使徒パウロは、世俗的な知識(グノーシス)の限界を見分ける「より高度な知識」(エピグノーシス)という言葉を使っています(ピリピ1:9,エペソ1:17,コロサイ1:9)。

エピとは、「上に、上の」という意味の前置詞。聖書では、エピグノーシスは「深い知識」「霊的な知恵」と訳されています。またその動詞形エピギノースコーは「見きわめる、識別する」と訳されます。

情報を判別する力として、ダニエル・ベル教授の<知識>、使徒パウロの<エピグノーシス>を例に挙げました。これらの深い知識は、情報が単にデータ(数値、比率、統計など)に止まるのに比べて、目的や意味や価値と結びついている点が重要です。例えば、人生の目的とか働く意味とか永続的な価値とかいう意識です。これらの知識は、動物にはなく人間のみが持つ能力であります。

若い時代には、それらの意識は必ずしも明確化・言葉化されているわけではないでしょう。けれどもないわけでもない。いや、意味・目的・価値へのセンスは幼少年期に育まれ、それらはやがて人生観とか世界観といった姿で次第にはっきりしてゆくのであります。

そうした人生観や世界観が若い時代にセンスやイメージとして形づくられていくのは、その人にとってある重要な経験がきっかけになっていることが多い。そのことを皆さんに理解して頂き易いように、私事で恐縮ですが、私の経験を一、二、手短かにお話ししたいと思います。

私が小学校6年生の時でした。算数の時間、掛け算で、どんなに大きな数字でもそれに0を掛けると0になると教わったのです。私は驚いて先生に「なぜ0になってしまうのか」と質問しました。すると先生は言いました、「お前、そんなことわからないのか。バカだなあ」。答えは、それだけでした。少年の私はお前はバカだと言われて、恥じ入り、黙って引き下がりましたが、この疑問はその後永く私の心に残り続けました。私には0という数字があらゆる数字を呑み込んで0にしてしまう、恐ろしい無の力と感じられたのです。あらゆる有を、無の中へ呑み込んでしまう、その理解しがたい暗黒の力を私は恐ろしいと思ったのです。

もう一つ。私が中学3年の時でした。教会にAさんという小母さんがいて、女手ひとつで3人の子どもを育てていました。そのうちの次女が、私よりも2,3歳年下の子でしたが、持病の小児喘息で亡くなったのです。

教会の大人たちに混じって、私も葬儀に出かけました。都立の母子寮でした。寮の玄関ホールに、会衆は4、50人棺を取り囲んでいます。出棺の時間になり、葬儀屋さんが、棺の蓋を閉じますが、よろしいですかと顧みました。その時です、Aさんの小母さんがツツーッと前に出たかと思うとウォーッという叫び声と共に棺を両手に抱えて泣きました。慟哭でした。私は、足がガタガタとふるえ、立ってはいられないほどでした。そして「こんなことはあってはならない、あるべきではない」と思った。ただ、ただ、そう思ったのです。

これが、私の「死」についての<原体験>です。この経験は私の存在の深みに刻みこまれ、忘れられぬ記憶となって、私の人格の一部になっています。

妹のマリヤが主の足元ににじり寄って、ひたむきに聞き入っていたのは、彼女には何かしらの原体験、切っぱ詰った心の課題があったからではないでしょうか。

Paul Tillich という偉い神学者がいました。元来ドイツの学者でしたが、ナチスの迫害を避けてアメリカに亡命して、アメリカ人として活躍した思想家です。彼の言葉に「宗教とは、究極的なものへの関心である」というのがあります。the ultimate concern つまり、根元的な、深い課題への関心、それが信仰だと言うのです。適切な表現だと思います。

以上申し上げた<究極的な関心>、<深い知識(エピグノーシス)>、<原体験>は、主イエスが言われた「ただ一つのこと」を指し示しています。

この「一つのこと」は、それ以外の事柄を否定し、排除する「一つ」ではありません。同じ次元にある情報やデータの中の一つではなく、それらと次元を異にする、それらの上に(エピ)ある究極的な・根本的な課題や真理なのであります。この「一つ」は究極的・根本的である故に、他を排除するのではなく、その各々の存在を認め、これを位置づけ、その各々の存在を認め、これを位置づけ、これを活かす力なのであります。

2年前の「信教の自由を守る特別礼拝」で、私は「根本的なものへの信念」が大事だ、と申しました。印象に残るように、英語で言いました、fundamental conviction と。これが大事なのです。これが諸価値を繋ぎ、秩序づけるのです。ちょうど、扇子の竹ヒゴを束ねている要のように、です。

中学、高校の教育課程は、英・数・国・理・社・保健体育・家庭・情報など数多くの教科目から成っています。それらは、いずれも必要かつ有意義であります。必ずや今後の学問や思索の基盤となり、社会人生活に活きて来るでしょう。ムダになるものはありません。

けれども、それらがバラバラでは活きて来ません。単なる情報の断片、データの断片に止まるでしょう。それらを相互に繋げるものはより根本的な真理・価値への信念であります。

皆さんは、女子学院という特別な教育環境において、中学・高校の大事な6年間を過して来られました。皆さんはこのあといかなる分野に進まれようとも、そこで更に高度の専門課程と取り組むだけの十分な基礎を造りました。

だが、それだけではありません。若い貴女方にとって最も大切なもの、最も根本的なこと、究極的な関心事、「必要なただ一つのこと」を<原体験>として身につけて来られたのです。

それらすべての中心にあるものは<礼拝>でした。聖書と讃美と祈りでした。そこにおいて皆さんは、世間的な利害損失・欲求や願望・予定や義務・怒りや嫉妬・娯楽やファッション等、押し寄せる世俗的関心事からしばし離れて、静かな一時を、永遠と向き合う深い時を、神が心の深みに語りかける特別な時を、持って来たのです。

卒業して行かれた先輩方が、こう言っておられるのを、私は読みました。「卒業して何十年か経っているのに、折りふし思い起こされるのは、JGで聞いた<神を愛し、人を愛す>という言葉です」。

先輩方にとって、主イエスの言われた「一つのこと」は、このメッセージだったのでしょう。こういうメッセージこそ、JGが目指す究極的な教育目標でありましょう。

JGは、この究極的目標に向かって、4本の柱を建てています。

1)聖書に聞き自分をかえりみる

2)教科の枠を超えて体系化する力を養う

3)知性と社会性を身につけ、互いに人格として尊重する

4)各自の賜物を磨き、社会に貢献していく

これ、凄くないですか。この4本の柱、見事にJGの人生観・世界観を言い表していますね。真善美を一つに統べ括って聖へと繋げています。

皆さんは、これをJG6年間で空気のように吸って育って来たのです。この空気 atmosphere, environment が皆さんが育って来た環境なのです。ここは、皆さんにとっての「深い知識、エピグノーシス」「原体験」「必要なただ一つのこと」の苗床でした。ここは、皆さんがそこから出て行く α(アルファー)であり、またそこへと帰ってくる ω(オメガ)であります。

若き日にここに貴女方を植えて下さった神の御心を讃美して下さい。貴女方を今日まで養育された保護者に感謝して下さい。そして教育して下さった先生方と友情を分ち合ったお友達とにお礼を言おうではありませんか。

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