夏の報告礼拝が行われました

女子学院の学年行事の中に、高校三年生の修養会と中学二年生のごてんば教室があります。中二ごてんば教室は「女子学院の入り口」、高三修養会は「女子学院の出口」とも呼ばれる、学校が大切に守っている行事です。今年度、宿泊は叶いませんでしたが、7月8日(木)~10日(土)に高三修養会、7月12日(月)~14日(水)と14日(水)~16日(金)に中二ごてんば教室をそれぞれ三日間ずつ学校で行うことができました。9月に行われた報告礼拝を一名ずつご紹介します。

 

中二ごてんば教室報告礼拝  「物語によっていきるギフト」

「これも人生」。この言葉を聞くと、肩の荷がすっと下りるように、心が軽くなる。「これも物語」。この言葉を聞いた時も同じように心が軽くなった。
私たちは、こんなはずではなかった、と思うことがよくある。特に私たち20学年は、コロナウイルスのせいでまともに入学式ができなかったり、学校生活も例年のようなものでなかったりと、ことごとく思い描いていたものが打ち砕かれている。ごてんば教室も、やっと友達との宿泊ができると思っていた矢先、学校への通いが決まってしまい、気落ちしていた。しかし、講師として来てくださった佐々木先生の、
「こうなってしまった、というのも、自分の物語と捉える」
という言葉が私の考えを変えた。なかなか思うようにならないこの状況も、認めることができるようになったのだ。物語だからこんなこともあるだろう、と折り合いをつけたり、苦しいことも見方を変えて、これから良いことが起こるはず、と希望を見出したりしようとできるようになった。
周りとは違っても私の物語は私の物語なのだ。それも、期待のできる物語なのだ。そう思うと、心のどこかで燻(くすぶ)っていたものが小さくなった。
また、学年を二つに分けて話し合う全体会では、「人生を物語のように捉えれば、ギフトを見つけられるのではないか」という意見が出た。ギフトとは、今回のごてんば教室を通して話し合った、それぞれの才能や個性のことである。確かに、自分を物語という舞台上で見つめ直すと、普段気付くことのできない自分の一面が見えてくる。
以前、友達から自分の長所を聞く機会があり、友達から見える自分のギフトを知ることができた。その時は、自分も自分自身を見つめ直して、そのギフトについて考えることができた。誰かからギフトを教えてもらうこともできるが、自分自身では、自分の言動を物語調に見つめ直すとギフトに気付き、考えることができるのだと思う。
「これも物語」。そう思えば、自分の物語を受け入れて希望を抱くことができ、自分のギフトを見つけることもできる。自分を自分として生きるために、物語は重要なのだ。
ごてんば教室の課題図書として読んだ『ギフト』にも、次のような一節がある。
「生きている最中に、自分の一生を一つの物語だと見る見方は、よりよく生きる助けになるかもしれない。」
『ギフト』の主人公は、自分の目を自分で閉ざした時期があり、その暗闇の中、主人公を支えたのは物語だった。この一節はそのことを表し、物語の世界の存在は、生きる助けになっていたのだから、その力は計り知れない。
最終的に私は、自分や周りの人の物語を大切にし、受け入れ合うことが、ギフトをつくり、つくられ、つくりあう、という今回のごてんば教室のテーマに繋がると考えた。物語を大切にし、受け入れ合うということは、自分や周りの人を認めるということであるから、それぞれがありのままの自分で生きることができ、ギフトをつくることができる。また、ギフトをつくる中で、互いのギフトが認め合われるため、ギフトがつくられる。そして、そのギフトが互いのためになり、ギフトがつくりあえる。
全ての人が、自らの物語の中でも、誰かの物語の中でも、持てるギフトを発揮できるように、まず私が、隣の人の話を聞いて頷(うなず)くことを始めたい。そんな、ギフトを見つけるためのギフトをごてんば教室で得られたことに感謝する。

 

高三修養会報告礼拝

良心とは、なんだろうか。
修養会のテーマ別ディスカッションの中で、私は生命倫理について考えた。出生前診断や遺伝子操作、尊厳死、脳死、延命措置。関連するワードを並べるといかにも重々しく感じられるこのテーマについて、友人たちと話し合う中で考えなければならなかったのは、何をもって道徳的に正しいと判断するか、である。これは今回の修養会のテーマである「共(つながり)に生きる―あなたの正しさと私の正しさ」にも直接関係してくることだ。正しさとはなんだろうか。それは、時代と共に変化するものだ、という言葉がディスカッションの中で出てきた。一昔前だったら考えられないようなこと、例えば、食物の遺伝子組み換えやゲノム編集が、昨今の技術の進歩に伴って当たり前のように行われている。それが人間にも適用されたら恐ろしいと今は思うけれど、数十年後には当たり前になっているかもしれない。
「何をもって道徳的に正しいとするか」についての私なりの答えを出すとするなら、ここでの正義は、「これからも人間が人間として生きていけるような良心をもつこと」だと思う。「人間らしく生きる」ということは、日常の積み重ねの中で生きることだ。例えば、空の色が昨日と違うと気が付くこと、玄関で「ただいま」と声を張り上げたら母が「おかえり」と返してくれること、廊下ですれ違った友達に手を振られて振り返すこと、素敵な音楽や舞台に触れて心が動かされること。これらの当たり前の日々は人と人とのつながりの上で成り立っていて、それがなければ無機質でただ心臓が動いているだけの「モノ」になってしまう。そうならない為に、私たちは良心や倫理観をもって、加速しつつある技術の進歩が間違った方向にいかないように、何の為の技術であるのかを考え直さなければならない。
その「良心」というものについて、講師の朝岡先生の講演の中で、韓国人の女性がヘイトスピーチ団体の主導者に向けて書いたという手紙のお話があった。女性は手紙に「私は、あなたの良心でもってデモをやめてほしかったのです。」という旨のことを書いたという。
良心とは、他人を尊重することだと思う。全体会を通して、他人を尊重するにはやはり相手を知ることが大切だと感じた。他人に対して無関心でいては、誰かが傷ついたことに心を痛めることもない。そのような良心がなければ、技術の進歩はただ好奇心に身を任せ、人間の尊厳を傷つける方向に進んでしまうのではないか。
私たちが良心をもってできることは、目の前の問題に一つ一つ向き合うことしかないように感じる。発達した技術をいかに「人間が人間らしく生きる」為に使うことができるか考え続けていこうと思う。
閉会礼拝で石原先生が「JG生には社会に出てからもキリストの香りをまとう者であってほしい」と仰っていた。この六年弱の間、キリスト教に日々触れていたことは、今まで意識したことはなかったけれど、私の価値観や思想に多大な影響を及ぼしているのだと、今回の修養会で初めて気づけたように思う。女子学院の出口と言うにふさわしい修養会を通して、今後社会に出てからも大きな糧として私の中心に在り続ける、沢山の学びと出会えたことに感謝している。

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