Welcome, Mrs.Kazama

 新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。
皆さんの門出を祝すように桜の花も満開で、穏やかな春の陽射しに恵まれた入学式を迎えることが出来ましたことを大変嬉しく思っています。お父様、お母様はじめ、保護者の皆さま、手塩にかけて育てて来られた、お嬢様のご入学、本当におめでとうございます。これから始まる女子学院での生活が実り豊かなものとなりますように、保護者の皆様と共に、お嬢様達の成長を見守り続けたいと思いますので、ご協力のほど、どうぞよろしくお願い致します。
既にご存知のことと思いますが、私はこの四月に院長に就任致しました。ですから、私にとっても、今日は「入学式」だと思っています。私も今、あなた方新入生と同じように、とても緊張しています。
今から半世紀以上前のことになりますが、私もまた、女子学院に入学を許され、今の皆さん達と同じように、湧き上がる喜び、期待、と同時に、一抹の不安を抱えて、とても緊張して入学式に臨みました。
そして、女子学院で最初に歌った「聞けや愛の言葉を…」で始まる讃美歌は、今も心の中に響き続けています。皆さんも、今歌われた讃美歌第二集60番は、女子学院に入学されて最初に声を合わせて歌った讃美歌として、きっと深く心に残ることでしょう。正に今唱われたように、「望みと喜びが心に満ちて、真理を探求し、究めるために」皆さんは女子学院に入学されました。あなた方をお迎えできて、教職員一同、そしてあなた方の先輩である在校生達も、本当に嬉しく思っています。ですから,安心して、女子学院での生活を始めましょう。
中学卒業という一つの区切り迄の、中学三年間の女子学院生活。それは約千日になりますが、一緒に入学を許された仲間達と共に、今まさにその千日の旅の出発点に皆さんは立っています。「女子学院でしか味わうことの出来ない千日の旅」の出発点です。
その「女子学院でしか味わうことの出来ない千日の旅」のポイントを今日は3点お話ししたいと思います。
まず第一点として、女子学院生活の根底を支えている「キリスト教精神を基盤とする教育理念」に関してお話しします。
女子学院生活の一日は、先程、皆さんが聞かれたチャイム。讃美歌301番「やまべに向かいて 我目をあぐ」から取られたメロディのチャイムに静かに耳を傾けることから始まります。この讃美歌は、今、理事長の公文宏先生に読んで戴いた詩篇121篇を元に作られたものですが、このチャイムの由来等については改めて学んで戴く機会があると思います。生徒も教職員も、皆、心を合わせてこのチャイムを聞いて、礼拝に臨みます。全員が守る毎朝の礼拝は正に女子学院生活の柱になるものです。
54年前、皆さんと同じように女子学院に入学を許された2人の私の同級生が中学1年生の6月に女子学院新聞に書いた記事をご紹介したいと思います。皆さんと同じ年齢の、かつての女子学院の中学1年生の証言です。そこには、毎朝の礼拝がいかに女子学院の教育における重要な基盤になっているかがとても良く表されています。
最初に桑原幸子さんの証言をご紹介します。
『あの入学式の日、お教室も決まり講堂へ行く時が来ました。私は新しいお友達の後から不安な気持でついて行きました。講堂の扉は一杯に開いていて、私達を待っていました。正面には校長先生が待っていらっしゃいました。私達はお母様方の期待の目を全身に感じながら席に着きました。校長先生が「あなた達は今日から立派な女子学院の生徒ですよ」とおっしゃった時、初めて「女子学院に入れたんだな」と思い安心しました。講堂一杯にハレルヤコーラスが響き渡った時、もう一度「女子学院に入れてよかったな」と思いました。あの嬉しく、不安だった日から、もう二ヶ月たちました。そして最近、私は重大な事を発見しました。発見というより教えていただいたのです。それは礼拝というものについてです。礼拝というのは、朝と夜に讃美歌を唱い聖書を読み、お祈りするものだと思っていました。だから、ホームルーム礼拝の時、「皆さん礼拝というのは、どんなものだか判りますか」と先生がお話しを始めた時、びっくりしてしまいました。「例えば、庭の花がきれいだなと思って、そこで、神様はこんな美しい花を私達に見せて下さった。と感謝する気持、それが礼拝なのです。皆さんも、一日中礼拝をしている様な人間になりましょう」とお話しして下さったのです。私はそのお話しを聞いてから、一日中礼拝している様な子になろうと思いました。しかし、なかなか大変です。毎朝礼拝の時「神様、今日こそは必ず守れますように」とお祈りするのですが、夜お祈りするときも「神様明日は・・・」と、お祈りする事になってしまいます。でも私は、女子学院に入って、大事なことを一つ知りました。これから六年間の間にどんなことを知る事が出来るかと思うと、とても楽しみです。』
彼女は女子学院卒業後、ICUに進学し、国連に勤め、国連の国際環境計画の要となったバーゼル条約の事務局長を務めた皆さんの大先輩です。日本人の女性として、緒方貞子さんと共に、国連の役職に就いた数少ない3人の女性の1人ですが、彼女の人生の基礎は確実に女子学院で培われたものだと思います。
少し長くなりますが、皆さんへの大事なメッセージですから、もう一人の証言をご紹介したいと思います。
大西八重さんの証言です。
『女子学院の生徒になってから、2ヶ月余りもたってしまった。月日のたつのは早いものだ。この2ヶ月間に加わった学科に、英語と聖書がある。英語は初めてなので、とても楽しい。しかし、聖書の時間があるとは知らなかった。入学式の前は、キリスト教で、土曜日がお休みの学校だと思っていた。だから「毎朝礼拝する」と聞いて驚いた。そんなに毎日しなくても良いのに、何故毎日なんかするのか不思議に思っていた。でもこの2ヶ月間毎日礼拝していると、心を鎮め、心を落ち着け、感謝と一日の安全を祈る事の大切さがだんだんとわかって来た。私は五月になって教会に行き始めた。日曜日だというのに、一人早く起きて行かなければならない。八時半に始まるのに、八時過ぎに起き、慌てて家を飛び出した事もあった。でも教会は楽しい。教会に行くようになってから学校で習った事より深い知識が得られるようになった。
6月8日は教会の花の日礼拝だった。皆手にお花を持って教会に行った。身体の弱い子供の居る所へ、美しい花を持って行った。身体の弱い子供達は皆よろこんでくれた。私はとても嬉しかった。皆の心も同じだったろうと思う。普通の学校に入っていたら、おそらくこんな喜びは味わえなかっただろう。
今年の八月には、全国キリスト教会の生徒大会があるそうだ。全国の同じ年頃の、同じ宗教の人々が集う事は、世界でも初めての事らしい。私は、これを機会にもっとキリスト教の事を知りたいと思っている。』
皆さんにも、キリスト教との豊かな出逢いが与えられますようにと心から祈っています。
第二点は、女子学院の教育のレベルは高いと言われている、その女子学院の教育とはどういう特色を持っているのかという点についてです。「教育」という言葉に皆さんはどんなことを思い描かれるでしょうか。
広辞苑を調べますと、『教え育てること。導いて善良ならしめること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図を持って働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動』とあります。「望ましい姿」とは誰にとっての「望ましい姿」なのでしょうか。また、三省堂の国語辞典によれば「教えて・おぼえさせる(しつける)こと」とあります。いずれも教育の主役は「教える側」にあるような表現になっています。つまり、教える側の意図するところに合致するように育てることに教育の目的があると考えられますね。
一方、英語で「教育」とは「Education」と言いますが、その語源である「educe」という言葉の意味は「潜在している、隠されている性能、能力を引き出す」ということです。ここでは主役は「学ぶ側」にあります。知識伝達型の教育によって、「知識」を効率よく会得させることに終始しがちな日本の初等・中等教育の背後には、こうした「教育」に対する考え方があり、現在、日本の教育が抱えている問題の根源はこの点にあると私は考えてきました。「答えはひとつ」という教育の在り方です。けれども、教育の本来の目的は皆さんの「潜在している性能を引き出す」ことにあるはずです。女子学院の教育の特色は、正にこの「潜在している性能を引き出すEducation」であり、女子学院生活という冊子にも書きましたが、皆さんそれぞれの中に潜む能力を引き出し、それを伸ばし、6年間の一貫教育を通して、深い知性に立って、自ら考え、主体的に物事に取り組んで行く人格を育てる事にあると言ってよいでしょう。「潜在している性能」はひとり一人異なります。その「異なる性能」を引き出すわけですから、きめ細かい指導が求められます。女子学院の先生方は、生徒の皆さんが自ら考え、活き活きと学び、主体性を持って生きていかれるようにと、創意工夫を凝らして授業を展開し、生徒指導に当たられています。皆さんも先生方のその熱意に応えて、積極的な学びを心掛けましょう。
最後に三番目の点についてお話ししましょう。
皆さんはこれまで、ご両親をはじめ多くの方達に「愛されて」育って来られましたね。女子学院に入学されたこれからは、女子学院の生活を通して、「愛すること」を学んで行って戴きたいと思います。
私達は、昨年の東日本大震災を体験して、「他者の為に生きること」の意味を教えられました。それはこうした極限状態とも言うべき特殊な場合に求められることではなく、日々の私達の生活の中でも求められていることです。聖書の中にはイエスの言葉としてこんな一節があります。
『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
私も昔、僻地等に行って奉仕活動をしたいと思ったことがあります。けれども実は、あなたの愛を必要としている人は、平凡な日常生活の中の、あなたの直ぐ傍らに居る人なのだと思います。道で往き交う見知らぬ人かも知れません。クラスの中の誰かかもしれません。その友人に対する愛は、僻地での行為や、災害地での活動のようには、人の目には定かには見えない愛の業かもしれません。けれども、それこそがあなたの愛を必要としていることであり、その業は神様から大いなる祝福を戴く愛の業、あなたの心が豊かに祝される、そんな愛の業だと思います。愛されることから、これからは愛することを学ぶ。受け身の生き方から、自らが意志して、主体的に生きていくことを学ぶ。それは、先程お話しした女子学院での勉強、学びの姿勢にも相通ずるところがあると思います。
今日読みました二つ目の聖書の言葉、「求めよさらば与えられん」は、女子学院での学びの姿勢の根本にあるものです。聖書が書かれた元々の言葉、ギリシャ語では、その行為を繰り返すことを求める命令形の言葉が使われています。どうぞ求め続け、探し続け、扉を叩き続けて下さい。
皆さんおひとりお一人が、一緒に入学した仲間と共に、新たな知的営みを楽しみ、新たな人との出逢いを大切にして、「女子学院でしか味わうことの出来ない千日の旅」を楽しんで下さるようにと、心から願って、院長の式辞と致します。ご入学おめでとうございます。
(院長 風間晴子)

Thank you, Mr.Tanaka

<田中弘志先生からのメッセージ>
皆さん、お元気ですか? 新しい年度の歩みを、また新たな希望をもって始められたことと思います。
私は12年間勤めた女子学院院長の職をこの3月に退任し、今はフリーの身となりましたが、今振り返ってみて改めて強く思うことは、女子学院という学校の存在の意義と責任の重さです。学習意欲に満ちた大勢の優れた生徒たちが集う学校でありながら、礼拝を中心としたキリスト教の精神に深く根ざした教育を優先するということは、成績や成果よりも大切にすべき人間の生き方があるという考え方に立つということです。そして将来の学びをも含めて皆さんが身につけていく知識や知恵を、“人間のこころ”をもって他者に仕える道を志向することでもあります。

フランス語にノブレス・オブリージュという言葉があります。英語ではnoble obligationでしょうが、一般に「高い身分に伴う義務」と訳されています。これは「高貴な者はそれだけの社会的責任や義務を負う」という意味で使われています。もともと階級制度や貴族社会を前提とした言葉ですので、これを今の私たちの生活にそのままあてはめて使うには少し抵抗がありますが、しかしこれを広く「恵まれた者の義務や責任」と解するならば、いろいろな意味で恵まれている皆さんが自覚しておくべき責任という意味で受け止めてもいいのではないでしょうか。女子学院という学校とそこに集う生徒諸君には、間違いなく日本の社会の中で、また世界の中で、果たしていくべき大切な役割があることを覚えておいていただきたいのです。
皆さん一人一人に与えられている豊かな賜物を最大限に活かして用いることが出来るように、今与えられている学びの時をどうぞ大切にして過ごして下さい。

雪の日のメッセージ
(生徒より)
一覧に戻る