女子学院に学んで

高校三年生の生徒の礼拝を紹介します。

聖書:コヘレトの言葉11章9~10節

若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい 神はそれらすべてについて お前を裁きの座に連れて行かれると。心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい。

 

今回「女子学院に学んで」というテーマで中学生の皆さんに話すことが決まった時、正直に言えば少し困ってしまいました。改めて何を学んだか、と聞かれると、はっきりとは答えられなかったからです。ただ、今はこの「はっきりと答えられないこと」が女子学院での学びの神髄なのかもしれないと思います。

まず、女子学院の学びで特徴的なのは答えのない問いかけの多さです。例えば、高三の聖書の時間で作文課題として「あなたの核<コア>はなんですか?」という問いが与えられ、修養会では「あなたの道標は何ですか?」というテーマのディスカッションが行われました。その時の私は、自分が心を動かされたもの、特に自分の何かに対する好きだという気持ちが自分を形作り、自分の進む道を決めていると考えました。それは、私が進路選択の際に、自分が興味を持ち調べていた日本史、特に中世史を深く学びたいと思い、文学部に絞って受験をすることを決めた経験からでした。今振り返ると、あの時、自分の軸に積み重ねてきた「好き」を置いたことは、今まで好奇心のままに動いてきた私が、自分の人生に責任を持つ覚悟を決めた出来事だったと感じます。

この質問のように、ことあるごとに与えられる答えのない問いは、私にとって今の自分の考えや立ち位置を整理する機会となり、自分自身の嫌な部分も含めて自分と向き合い認める助けになりました。

また、国語の授業で単元の最後に出る作文課題も答えのない問いかけです。何故主人公はそう思ったのか、作者はどんな事を伝えたかったのか。作文を通して同じ課題でも全く違う考えの同輩の意見を多く目にし、その洞察の深さに心の底から敵わないと思うことばかりでした。だからこそ、女子学院での日々は背伸びすることなく等身大の自分で相手と関わり、周りにいる同輩の凄さを認め、彼女らと共に過ごすことが出来る私の幸運に感謝する日々でした。

次に、様々な意見を聞く姿勢も女子学院に特徴的だと感じます。例えば、礼拝では日頃習う先生や同輩たち、外部からいらっしゃった方などの多種多様な考えに触れる機会があります。私は入学してすぐの頃、先生方が失敗談や後悔を隠さず生徒に話すことに驚きました。一人一人の考え方の違いを礼拝を通して聞くことで、話したことのない人のことも少しだけ知ることが出来たような気がして親しみが湧き、嬉しく感じたことを覚えています。先生と生徒、先輩と後輩でも単なる上下関係ではない女子学院独特の暖かな雰囲気は、この礼拝で出来ているように感じます。

思い返せば、講演会や礼拝で様々な視点の話はあれど、女子学院に入ってから誰かの意見に対して正解とも不正解とも言われたことはありません。勿論、時に自分とは合わないと感じる考えに触れることもありましたが、それらを通して自分の考えを見つめ直すことが出来ました。

特に印象的だったのは高三修養会の最後に行われた全体会での一幕です。ある同輩の意見に対して、「その考え方もいいと思います。しかし自分の意見は〇〇です。」と発言した同輩がいて、意見のやり取りを通して、最後に「あなたの意見を聞いていて自分の考えが少し変わりました。」と最初の発言者は話していました。私はこの会話で重要だったのは自分の意見を言う前に一言「その考え方もいいと思います。」と付け加えたことだと思います。もし、この一言がなく、ただ「私の意見はあなたと違います。」と言われたらどう思うでしょうか?自分の意見が否定されたと感じる人もいるかもしれません。人は自分の意見に対して違うと言われるとつい正当化しようとして相手と対立してしまいがちです。ですが、「その考え方もいいと思います。」という譲歩の一言があるだけで、自分とは違う意見も対立ではなく並立の意見に変わります。その結果自分とは別の意見について考えることが出来ますし、違う意見を言いやすい空気にもなります。修養会で幾度となく聞いたこの一言が意識的に付け加えられたものかは分かりませんが、さりげなく相手を思いやる姿勢を持つことのできる優しさは私も大切にしていきたいと思っています。

誰の意見にどう思うかは受け手である私たち個人に委ねられていて、それぞれの意見が生かされる寛容さが、女子学院の「自由」のイメージを形作っているのではないでしょうか。

初めに述べたように、私が「はっきり答えられないこと」が女子学院の学びの神髄だと感じるのは、これまであげた答えの無い問いかけや様々な考えを聞く姿勢から、それぞれが自分なりの軸を見つける土台を作ることが、女子学院が昔から大切にしてきた使命では無いかと感じているからです。私は、自分の人生に関わる重要な決断は自らの意思で行い、納得しなければいけないと思います。それは自分の人生は自分で責任を持つべきで、他人のせいにして後悔をしたくないからです。その為にはしっかりとした自分の軸、言い換えれば判断の基準が必要です。私たちの世界で起こることは、是非の二項対立で語れることはそれほど多くありません。ほとんどのことは複雑な事情が絡み合っていて、それでも私たちは自分の意見を考えて、その出来事と向き合わなければいけません。そのなかでは、自分の考えを持ちつつ相手の意見を受け止め、多角的にものを見ることが重要になります。

多感な思春期の六年間に正解のない問いに向き合い続けていく中で、私は自分の軸を作るための考え方の欠片を沢山得ることが出来たと思います。

今回の聖書箇所は、ある同輩がホームルーム礼拝で紹介してくれたものです。それ以来いつもしおりを挟み折に触れて読み返しています。当時は十節の「若さも青春も空しい」は文字通り、青春は後から振り返ればあっけなく終わってしまった空しいものだ、という意味だと考えていました。しかしこの「空しい」という言葉は「短い」や「束の間」と訳すことも出来ます。であれば、青春は束の間だからこそ、楽しく生きよという意味にもなります。

青春時代は有限なものです。しかし、私は終わってしまうことは必ずしも悪い事ではないと思います。後から振り返って、あの頃は一番良かったと思える日々があることは、とても幸せなことです。私にとってこの六年間は楽しく、特に部活を引退してからの日々は、終わりを意識したからこそ、一日一日がより大切で愛おしいものに感じられました。私たち高三生はこれからそれぞれの道へ進んでいきます。皆さんもどうか日々の様々な経験から得られる考え方の欠片を見逃さずに、頭の片隅に置いていてほしいと思います。一つ一つは小さく忘れてしまうような出来事だったとしても、ここで積み重ねた学びはきっと皆さんにとって大きな糧になります。これからの皆さんの行く先が幸せに満ちたものであることを祈っています。

一覧に戻る