春の修養会の報告礼拝が行われました
女子学院では毎年3月に学年を超えた有志で春の修養会を行っています。今回のテーマは「Who am I?〜Self & Others〜」でした。5月27日(火)中学講堂礼拝と5月9日(金)の高校講堂礼拝で行われた、中学二年生の生徒と高校二年生の生徒の報告礼拝を紹介します。
中二生徒
私は女子学院に入学して他者とどのように関わっていけば良いのか、どうすれば他者と仲良くなれるのかなど人間関係について悩むことが多くなった。それは女子学院でクラスや部活などの新たな共同体に所属するようになり、人間関係を一から構築せざるを得なくなってしまったからだと思う。
学年が変わって今まで知らなかった人と出会う前のタイミングで今回の修養会に参加し、他者との関わりについて考えることができたのは自分にとって大きなプラスになったと思う。また、周りの学校生活を楽しんでいる同級生を見て、悩んでいるのは自分だけなのかと不安に感じる時もあったが、修養会でのディスカッションを通して、案外他の人も同じことで悩んでいたのだと気づき、安心することができた。
さて、私が修養会の中で印象に残った考えが二つある。
一つ目は他者への接し方についてだ。全体ディスカッションの時、「人と仲良くなるには」というテーマで話し合いをした。その時出た意見の中で、「踏み込んでほしくないことにも相手に踏み込まれるかもしれないが、覚悟を持ち、相手を信頼して関わることが大切だ」という意見が印象的だった。私は今まで人と関わることで自分が傷つくことを恐れ、自分から話しかけたり、積極的に自己開示したりすることをためらってしまうことが多く、相手とすれ違いが起こることもあった。お互いのことを知り、理解し合うためにも、相手と仲良くしたいという気持ちを持って、勇気を出し、対話を重ねていこうと思う。
二つ目は他者の存在についてだ。来てくださった講師の佐原先生のお話の中で「自分が見えていないことに気づかせてくれるのが他者だ」というお話が印象に残った。人は誰しも周りが見えなくなり自分の価値観だけで誤った判断をしてしまうことがある。そんな時に自分を客観視して正しい判断に導いてくれるのが他者だと思う。また、自分を形成するものの大部分に他者の存在がある。他者は自分に深く関わっていて、新しい発見を与えてくれる存在なので大切にしたい。そして、自分の考えだけに固執するのではなく、他者の考えも受け入れてみることを心がけたい。
最後に、修養会は、ディスカッションを通し、少し踏み込んだ話をすることで、他者の考えや内面の一部を知ることができる普段の日常にあまりない貴重な機会だったので参加してよかったと感じた。
「他者の中に自己を見る」 高二生徒
高校生になり、将来のことを考えるようになった近頃、自分のために生きるか、それとも他者のために生きるかということが、私の中で究極の二択となって迫っていた。聖書には「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とあるが、現実では自分と他者は同時には大切にできないと思っていた。そして自分は恵まれた環境で学び、育ってきたのだから、他者のために生きるべきだという思いと、同時に、自己犠牲は悪ではないかという疑問もあった。修養会でこれらの疑問が解決されることを期待していたが、答えははっきりしないまま最終日を迎え、全体会が始まった。
全体会の最中、私は誰かの発言を頷きながら聞く自分、発言の後に熱心に拍手する自分に気がついた。相手の意見が自分と異なっても、言葉に詰まっても、何とか受け止めようとしていた。自分はここまで他者を理解しようと努力できるのか、と驚いた。「共感」がそうさせたのではないか。
二日目のディスカッションでどなたかが仰った、「共感とは他者の中に自分を見ること」という言葉を思い出した。全体会やグループディスカッションで発言する時、私はいつも、自分が本気で考えたことを他の人に受け止めてほしかったし、自分の拙い発言も他の人の考える材料になればと勇気を出したことも認めてほしかった。これは発言するかしないか葛藤した時に見い出した、自分の正直な思いだった。きっと他の発言者も、理解されたいし、勇気を認めてほしいだろう憶測と、それに対する共感が、私の頷きや拍手を生んだのだと思う。
共感というのは、その意見に賛成!と言うことではなく、相手の思いや存在を認め、理解しようと努力することではないか。修養会を通して私は、自分の中の理解されたい、認めてほしいという思いを鮮明に見たため、他者の中のそれも鮮明に見えるようになった。
やはり人間は、他者を主観でしか見ることができないと思う。一見矛盾しているように見えるが、自分の心の声に耳を傾け、その思いの存在を認めることこそが、他者に共感する、すなわち他者を認め理解する上で必要なことなのかもしれない。読書や様々な経験も、他者に共感するための助けになると思う。もちろん主観で他者を見ているのだから、それが他者の本当の姿だと思い込まず、相手のイメージに余白を残しておく必要もある。
私は修養会以前からの、自分のために生きるか他者のために生きるかという問題に、一つの答えを見つけられたような気がする。自分の声を無視して他者に奉仕するのでは、共感の伴わない、目的地の分からない虚しい自己犠牲となる。自分の心の声を尊重し、他者に目を向けてはじめて、他者に対して温かい共感を伴った働きかけができるようになる。自分を愛するように隣人を愛する、ということの意味が分かったような気がした。