中3東北旅行

入道崎

中3は、前班5月8日~11日、後班9日~12日で東北旅行に行きました。半年以上前から事前準備をはじめ、自分たちで研究した場所やものをひとつひとつ見学し、体験し、充実した3泊4日となりました。
天候の関係で、3日目の男鹿では前班が地引網、後班がケデ(なまはげの衣装)作りを体験し、4日目の八幡平では後班が雪すべり体験をしました。
旅行の写真と、班の記録から最終日の文章を紹介します。

中3東北旅行日誌より:

5月11日(木)4日目

最終日の今日は、湖畔荘にて朝食を頂いてからのスタートでした。お祈りの時になって初めて、東北は今日で終わりということに気付き、終わってみれば早いものだったなーと感じつつ、食べました。
バスで約1時間移動し、奥入瀬を歩きました。思っていたより肌寒い天気であり、ガイドさんによればつい最近に歩道が解禁になったばかりのことで、雪が少しばかり残った岩もありました。
広葉樹が多い奥入瀬ではふかふかの腐葉土のマットが形成されており、そのスポンジのような構造のために一年中しっとりとした感じであるという話の通り、ぬかるみが多く、時折足をとられそうになりました。歩く間いたる所で遭遇する滝は、大きな岩に当たって白い水しぶきをあげ、渓流のすべてを流しきってしまうように、激しく流れる川は、静かに音をあげつつ、無造作においてあるような石に泡をふきかけ、流れに当たらない岩にだけ緑色のこけがひっそりと生えていました。白・青・緑のコントラストがとても美しかったです。
特別名勝天然記念物とされる十和田湖の自然は、全く手をつけずに保存されているとのことでしたが、実際に歩いた後では、これらも守るべきものだと感じました。日本の山奥に誰からも傷つけられない唯一無二の自然が存在することは、貴いことであると思います。
次にバスで八幡平へ向かいました。バスでかなり激しく酔っていたのですがなんとか回復…。途中縄文時代の遺跡である大湯環状列石のそばを通り、磁場を利用して宇宙と交信していた、と言う話を聞き、ありえなくもないかもと思ったのでした。
八幡平につく前から山が雲につきささっており、「なんじゃありゃ」と思っていたのですが、ついてみれば想像通りというかなんというか2m先は見えぬという悪天候で雪滑りは中止し、氷壁ツアーとなりました。せっかくなので記念に半袖で写真撮っておきました。院長先生に「見ているだけで寒い」と言われました・・・。
下山中、その昔鉱山で栄えた町の廃墟を見ました。・・・絶対行きたくない。石油ショックで閉山し、現在は見る影もなし。さらに進むと、2日前南から見ていた岩手山を北からの視点で見ることができました。本当に東北中を移動しまくっていたのですね・・・。全く違う表情の山でした。
恒例となったガイドさんの歌を聴きつつ、盛岡に到着。・・・ビル街なのに人なし、山ありと変なカンジでした。帰りの新幹線では、「寝ないなんておかしい」とまで話していたのに一睡もしませんでした。やはり旅は切なく終わる・・・。
全てが、行く前に想像していたよりもずっとずっと楽しい旅行でした。毎日移動なのは少しきつかったけれど、多くの人々とかかわれて良かったです。クラスで話したことのなかった人としゃべるきっかけにもなりました。よく食べ、よく眠れました。初めての東北(福島以北)でしたが、また行きたいなーと思いました!
当日まで準備を続けてくれた東北委員、付きそって下さった先生方、楽しい旅を案内してくださったガイドさん、運転手さん、添乗員さん、行った先で手厚くもてなして下さった旅館の方々、施設の方々、なまはげさん、ありがとうございました。

五里合海岸にて地引網(前班)
ケデ作り(後班)
なまはげ伝承館
八幡平にて雪すべり(後班)
小岩井牧場
毛越寺

アジアエキュメニカルウィーク礼拝が行われました

教会では、聖霊降臨日(ペンテコステ)の前の一週間をアジアの教会に関心を寄せて、アジア祈祷週間としてアジアの抱える様々な重荷を担い合うことを考えています。
例年女子学院では、この週に特別に講師をお迎えして、アジアの問題と合わせて世界の問題を考え、祈ります。
2006年度のテーマは《平和のために祈り、働くことができますように…ネパールのために祈る》です。以下の日程で礼拝が守られました。

伊藤先生
田村先生
5月22日(月) 森田哲也先生 『あなたは従いますか?』 (エチオピア農村開発プロジェクト・コーディネーター) (中・高)
5月23日(火)大里英二先生 『いつも喜んでいるために』 (日本バプテスト同盟 タイ派遣宣教師) (中・高)
5月24日(水) 田村光三先生 『いのち』 (JOCS 日本キリスト教海外医療協力会会員)(高校)
5月25日(木)田村光三先生 『隣人を愛しなさい』 (中学)
5月26日(金) 伊藤久平先生 『小さな奇跡』 (チャイルドファンドジャパン 国際精神里親運動)(高校)

田村光三先生の礼拝『隣人を愛しなさい』と伊藤久平先生の礼拝『小さな奇跡』を紹介します。また、森田哲也先生の礼拝『あなたは従いますか?』と田村光三先生の礼拝『いのち』に対する応答礼拝の一部を紹介します。

中学礼拝 『隣人を愛しなさい』(要約)

田村光三先生
(日本キリスト教海外医療協力会会員)

聖書・ルカ・10・27
賛美歌・452(正しく清くあらまし)

「ナマステ」(こんにちは)
私がネパールの山村で医療奉仕をしていた友人の伊藤邦幸夫妻を尋ねたとき、ある村の農家の庭で、むしろの上に豆を広げて干していたおばあさんに「ナマステ」と声をかけました。そのときそのおばあさんは、しなびたミカンを2つ手のひらに載せてもってきてくれました。そのおばあさんは、わたしのおばあさんとそっくりでした。その時から私は、先祖がこのヒマラヤの麓から来たのだと信じるようになりました。そういえば、お米も、そして、桜もネパール原産だということです。
「サンガイ・ジウネ・コラギ」(共に生きるために)
ルカによる福音書の10章には、「善いサマリア人の話」があります。これをネパールの山村で18年間も結核の予防と治療に専念された岩村昇先生が、小学生の時日曜学校で聞き、将来自分も医者になって働こうと考えられたとのことです。
岩村医師は結核キャラバンの途中で立ち寄ったある山村で、ひとりの重症の老婆に出会いました。そこから岩村医師の病院までは3つの山を超えて行かなければなりませんでした。困っていたところにひとりの若者があらわれ、その運搬を引き受け、3日3晩かけてこの老婆を背負って運んでくれたというのです。
岩村医師は、お礼をしなければといったら、その若者は、
「ドクター、俺はこの婆さんを金儲けのために運んできたのではない。」という。
「では、何のために」と岩村医師が聞くと、彼は、
「サンガイ・ジウネ・コラギ(共に生きるためだ)」
といって、お金を受け取らずに去っていったとのことです。
「隣人となる」
あの「善いサマリア人のたとえ」の中で、追いはぎにあって半殺しになった人を助けたのは、偉い宗教家でもなく立派な学者でもありませんでした。その人を助けたのは、そのころのユダヤでは「外国人」として馬鹿にされていた「サマリア人」でした。
「隣人」とは、追いはぎに合った人の傷に薬をぬり、包帯をし、ロバに乗せて、宿屋に連れて行って休ませた人なのです。あの、ネパールの若者のように、みんながこのような「隣人」になることをイエス様は待っておられます。世界の人々が「共に生きる」ために。

高校礼拝 『小さな奇跡』

伊藤久平先生
チャイルドファンド・ジャパン(国際精神里親運動)

チャイルド・ファンド・ジャパンChildFund Japanは、1995年からネパール東部のオカルドゥンガOkhaldhungaという場所で病院を支援しています。皆さんからのご寄付もこの病院支援に活かされています。本日は、この病院を訪問した時のお話を皆さんにしようと思います。
この病院は、1960年代にUnited Mission to Nepalという団体によって開設されました。この団体は、キリスト教精神に基づいた団体で、岩村昇先生もこの団体へ派遣されていました。この病院にも日本から伊藤邦幸・聡美というお医者さんのご夫妻が派遣されて活動をなさっていた時もありました。今もネパール人のお医者さんにまじって、外国の教会から派遣されたお医者さんが働いています。
さて、この病院に行くには、大変な道のりを行かなくてはなりません。ネパールの首都、カトマンズから国内線で約1時間。丘陵地帯の町の草地の飛行場に到着します。崖っぷちにある飛行場で、滑走路が坂になっていて、着陸の時は坂を上がるように、離陸の時には坂を下ってスピードをつけます。とてもスリルがあります。
飛行場のある町から歩いてオカルドゥンガへ向かいます。標高差は約200メートル。200メートルくらいだったらたいしたことはないと思うでしょう。ところが町とオカルドゥンガの間には深い、谷があるのです。ですから、まず下り坂をどんどん降りていきます。ずっと下るというのは大変疲れます。だんだんひざに力が入らなくなります。くだること1時間くらい。ようやく沢が見えてきます。もちろん橋はありません。どうにか川を渡り、靴下を履きなおし、靴を履くと、いよいよ上り坂が始まります。途中で休むこと数回、途中の民家で、甘いミルクティーを飲みます。尾根まで上るとオカルドゥンガバザールと呼ばれている小さな町につきます。尾根にそって細長い道をあるいて、さらに1時間、山の斜面にオカルドゥンガ地域病院が建っています。
病院というとどんなイメージがあるでしょうか?きっと大きなビル、明るい室内、清潔な床など、を想像するのではないでしょうか?この病院は、平屋で病室には小さな裸電球があるだけ。天井に窓をつけて明かりをとるようになっています。手術室の天井にも窓があり、できるだけ明るくするようになっています。病院で使う全ての医薬品はもちろんのこと、例えば、自家発電用のガソリンなども、下の道から運び上げなくてはなりません。

この病院は、この地域に住んでいる人たちにとっては大変重要です。オカルドゥンガは丘陵地帯で、大きさは、東西南北30キロ、人口は約16万人ですが、このオカルドゥンガには病院はここ1か所しかありません。
私がこの病院を訪れた時も、アキレス腱を切ってしまった男の子の手術、急に産気づいたお母さんの出産、結核の治療や栄養指導など、お医者さんや看護師さんは大忙しでした。お医者さんも外科、内科、産婦人科など分けて診察する余裕はありません。どんな人が来ても、診察して診断をしなくてはならないのです。また、ネパールでは数少ない24時間救急対応をしているので、夜中でも急患がかつぎこまれ、緊急手術をすることもあります。
この病院に私が滞在している時に出会った一人の女の子を紹介したいと思います。名前はタマンちゃん。11才です。ある時、熱が出て、おなかも痛くなりました。また咳も出始めました。ネパールの人たちは、病気になると村の祈祷師に見てもらって病気を治すということが普通です。タマンちゃんのお父さん、お母さんも、あまり熱が続くので祈祷師に見てもらうことにしました。しかし、タマンちゃんはますます悪くなっていきました。お父さんは、このままでは良くならないと考え、病院のお医者さんに見てもらおうと決心しました。以前に病気になった人を担いで、この病院に来たことがあり、その評判を知っていたからです。
皆さんが病院に行くのと少し事情が違います。タマンちゃん家族が暮らしている村から病院までは、歩いて3日かかります。お父さんは、タマンちゃんを背中に背負ったかごに入れて歩きました。かごの底には、食糧を入れました。昼間は歩き、夜になると民家に頼んで軒下で眠りました。そうしてようやく病院に辿り着いたのです。熱があって具合の悪い時に、昼間は背中に背負われて揺られ、夜は家の軒下で眠る、3日間、そんな生活が続いたらどうなるでしょうか。
病院に着いた時には、タマンちゃんは声をだすこともできないくらい疲労困憊し、衰弱していました。私が初めてタマンちゃんに会ったのは、診察室で横になったタマンちゃんでした。枯れ木のような足と手。3日間、担がれてきて顔を洗うこともできなかったのでしょう、真っ黒に汚れていました。早速、診察が始まりました。肋骨がはっきり見えるくらいに痩せています。お医者さんは、タマンちゃんは、重度の栄養不良による貧血、それに結核の疑いと診断をしました。結核であれば、他の人にうつすことにもなるので、入院することになりました。病室に行ってみると、タマンちゃんは輸血をしています。貧血が進んでいたのでしょう。翌日も輸血が続きました。3日目なり、タマンちゃんに笑顔が戻ってきました。後で聞いたところによると、タマンちゃんは元気になって、自分の足で故郷の村へ帰ったとのことです。
今日の聖書の個所ですが、イエスさまがゲネサレというところに着いたらすぐに人々は、イエスさまに病気を治していただこうと集まってきました。その地方にイエスさまが来たことはすぐに知れ渡り、どんなに遠いところにいる病人も床に乗せたまま運んできたのです。そして、イエスさまの上着のふさにでも触れた病人は、病が癒されたのです。
聖書のこの個所を読むとき、私は、オカルドゥンガの病院に詰め掛けていた、大勢の人々のことを思い出します。病院がなければ、多くの子どもたち、人たちは病気に苦しみ、そして多くの命が失われていたでしょう。皆さんの尊い献金は、この病院が運営を続けていくために生かされています。皆さんの献金で、多くの子どもたち・人たちの命が救われています。どうぞそのことを覚えて、そしてオカルドゥンガの子どもたちや人たちの健康と幸せをお祈りの中に加えてください。

森田哲也先生の礼拝 『あなたは従いますか?』に対する応答礼拝(要約)

(中学2年)

森田先生がマイクの前に立ってから数秒の沈黙があった。そして「世界中では3秒に一人が飢餓で死んでいく。」という話をされた。先生が援助活動をしていたエチオピアでは、「1分に4人がエイズで死んでいき、1分に2人エイズで親が死んでしまい、孤児が生まれる」という厳しい現実がある。
先生はエチオピアでエイズに感染した方とその子供2人とを援助していらしたそうだ。エイズに感染した方はもう薬では治らないところまで悪化し、先生はその方と話を続け、最後には手をつないで祈ろうとなさった。先生は手をつなぐという行為が一番緊張するのだという。それは、エイズに感染してしまうかもしれないという危険や恐れからではなく、その手に血がかよっているとは思えない冷たさで、骨だと思ってしまうほど肉がないからだそうだ。そして、その方と祈ろうとした瞬間、何も言葉がでなくなってしまい自分の弱さを教えられたという。つまり、隣人を愛せていなかったために、この方と共に祈る言葉を神様は与えてくださらなかったというのだ。森田先生はそこで違う聖書の箇所(ルカによる福音書の19章1節)を開くようにと勧めた。そこに綴られているのは、イエス様がエルサレムへ向かうとき、向こうの村からだれも乗ったことのない子ロバを引いてくるように指示し、弟子たちが連れてきた子ロバに乗って、また向かっていったという話だった。この時代ロバは暴れることで有名で運が悪ければかまれることもあり、だれも乗ったことのない、飼いならされていない子ロバに乗るということは、とても危険な行為であるにもかかわらず、イエス様はあえてそのような行動をとった。つまり、わざと弱いものを使ったのである。そして、それは弱い私たちも使ってくださるということを伝えたいのだと思う。私たちが弱いものから強くなるためにできることは、隣人を愛することなのではないだろうか。クラス替えをしてから同じクラスの人でも未だに話したことのない人がいる。私はその人たちとかかわりをもってみたいと思う。そして心を広くもっておたがい話し合えるようになったらいいと思う。以前に悩んでいた時、そのことを友達に相談してみたら、簡単に悩みを解決してくれた。相手からとれば思ったことをそのまま話してくれただけなのかもしれないが、私の心は晴れた。私はその友達との心の交流を実感することができた。そして、その友達は私の中でのとても大事なかけがえのない友となっている。そういう友達を増やしていくことができたら、「隣人を愛す」ということはそれほど難しくはないかもしれないと思った。

田村光三先生の礼拝 『いのち』に対する応答礼拝(一部)

あるとき山で、重症の結核のおばあさんを見た。タンセンにある大きな病院に運ばなくてはならないが、3日間、道も舗装されていない3つの大きな山をおばあさんを背負っていかなくてはならない。そこに丁度通りがかりの青年が、タンセンまで運んでやるよ、といって、3日3晩おばあさんを背負って運んでくれた。御礼をしたいんだというと、青年は冗談じゃない、俺はそのお金をもらうために運んだんじゃない。と言って、お礼を断った。では何のためにこのような大変なことをしたのか、と尋ねると、その青年は「サンガイ・ジウネ・コラギ」(共に生きるために)と言った。
先週、アジアエキュメニカルウイークでお話になった田村光三先生は、ネパールで地域医療のサポートをしていらっしゃいました。そのお話の中で、私が最も強い印象を受けたのがこのお話でした。そして、「なぜ、彼はお礼ももらわずにおばあさんを助けたのだろうか」ということと、「『共に生きる』とはどのような意味か」という2点についてお話したいと思います。
彼はなぜ、おばあさんを助けたのでしょう。特に理由がなくても目の前に困っている人がいればその人を助ける、というのは道徳的に正しいと思いますが、実際それを実行できるかというとそれは難しいと思います。たとえば、目の前で気分の悪そうな人がいるとしましょう。その人は気分が悪いのですから、手当てをしている間に吐いてしまうかもしれません。そして、その人が吐いたものが汚いからといって、その人を助けることを躊躇してしまう人がいるかもしれません。「人を助ける」ということは「その人のために自分の時間を費やす」ということにつながると思います。
先ほどの例などでは時間を費やすだけでなく、自分は多少の不快な気持ちに耐えなくてはいけないかもしれません。これほどのリスクにもかかわらず、なぜ人は人を助けるのでしょうか。それは、ギブ・アンド・テイク、つまり自分が困っているときに他の人に助けて欲しいからという考えもあるかもしれませんが、「他人と時間を共有する」、それが「共に生きる」ということではないかと思います。
私は「共に生きる」とは「その人と時間を共有するということ」だといいましたが、その結論はどのようにして導かれたのかを説明したいと思います。まず、彼はおばあさんを助けました。助けた、と言ってしまえば一言ですが、彼は三日という長い時間をおばあさんを助けるためだけに費やしたのです。これは行きの道のりだけですから、実際は帰りの道のりを含めてもっと長い時間がかかったでしょう。しかも、山道にはきちんとした宿があったかどうかも疑問です。民家すらなかなか見付からなかったでしょう。これほどのリスクがあるにもかかわらず、彼はなぜおばあさんを助けたのでしょう。彼にとって、この出来事は何か得るものがあったのでしょうか。それは、おばあさんの人生に関わることが出来たことだと思います。人の人生に係わる、というのは実は覚悟がいると思います。それは少しでも係わってしまったら、係わり終わるまでその人の人生に責任を持たなくてはならないからです。目の前に気分の悪い人がいたら、という例えをお話しましたが、その人を助けることをためらうことの理由の一つには、係わってしまう以上、その人が元気になるまで、少なくとも元気になる兆しを見せるまでその人を見届けるという責任が発生するので、その責任を負いたくないという考えもあると思います。彼はこの責任を負った上で、おばあさんを助け、おばあさんの人生に係わりました。きっと、彼にはおばあさんを病院に無事に送り届けることができた安堵感と、達成感があったことでしょう。それが、お礼もいらないほどのものだったのか、それとも違う理由で断ったのか私にはわかりませんが、おばあさんを助けて彼が悪い気持ちにならなかったのは確かだと思います。
(中略)
自分の目の前にいる人と「共に生きるか」、否かということは自分自身の判断であり、もし共に生きることを望むのであればそれなりの責任を持たせなくてはなりません。しかし、その責任を恐れずに人を助け、「共に生きていく」ということができる人間になりたいと、私は思いました。

JG会有志の奉仕活動の紹介

5月に行われたJG会総会で、「布の絵本の会」の活動が紹介されました。

★ 布の絵本
布の絵本とは、布の持つ柔らかさ温かさに加え仕掛けの面白さなど五感をフルに使って遊べる絵本です。
今回「そら」をテーマに未就学の身体不自由児の機能訓練として
1.カラフルな色使い(視覚)
2.素材による手触り感(触感)
3.音の鳴るおもちゃ(聴覚)
4.お話つくり(読み聞かせ)
以上の点に留意して「布の(仕掛け)絵本」を製作しました。
1ページごとに取り外しができ、ボタン、マジックテープ、ゴム、紐などを使いくっつけたり外したり、ひっぱったり叩いたりしながら感覚を刺激します。また、ひとつのテーマを追うことでストーリーを持たせて読み聞かせのできる絵本に仕上げました。
★ のぼり
毎年バザーに出店してくださっているラファエル会からの要請でバザー当日に店頭に飾るのぼりを製作しました。販売しているクッキーをイメージしてトールペインティングでデザインを描きました。

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