体育祭

4月30日(水)に東京体育館にて体育祭が行われました。少ない時間の中で各学年の生徒は一生懸命競技、応援やマスゲームの練習に取り組み、その成果を発揮されました。
何もかもが初めての体育祭だった中学一年生は、先輩の見事な応援や競技には驚きを見せながらも、来年からは自分たちも積極的に体育祭を盛り上げていく意欲と自覚をもったようです。
中学一年生の学年便りからいくつかの感想を紹介します

讃美歌II 142 (若きわれら)「なんだかとても勇ましい歌だな~」と思ったら、"ドイツ学生歌"と書いてありました。
玉入れかごが高くて、小学校との差にビックリ!背が高い人が有利!
中2マスゲームたった一つの道具でキレイな技を見せてくださって、感動しました。
応援中1は一番完成度が低いはずなのに、先輩方に暖かく見守られ、不思議な気持ちになりました。体育祭で一番感動しました。
おたまでポン保護者の方が強くて「すごいなぁ」と思いました。先生たちのいつもと違う一面を見たように思いました。
高3マスゲーム「スゴイ!」としか言えません。計算されていて…練習されていて…みんな自分のタイミングを体にしみこませていたのですね!これぞ高3だぁー!色づかいもきれいで何といっても最後の星は…!私たちもそんな高3になりたいです!
高3マスゲーム

アジア祈祷週間

女子学院では、聖霊降臨日(ペンテコステ)の前の一週間をアジアの現実に心を寄せ、この地域の抱えるさまざまの重荷を担うことを願って、アジア祈祷週間として守ります。今年は特別に四人の講師をお迎えし、アジアの問題と合わせて世界の問題を考え、共に祈りました。
5月20日(火)に木村訓子先生(チャイルド・ファンド・ジャパン)をお招きし、『喜びをつなぐ』という題でお話を伺いました。

「よろこびをつなぐ」

今週はアジア祈祷週間ということで、様々な視点でアジアの事を学んだり、アジアの友のために祈ると思います。祈る、祈祷、とはどういうことでしょうか。

一般的には願い事をする、困ったときの神頼みという日本の諺があるように、助けを求める、ということがあると思います。また、誰かのことを心に留めることもあるでしょうし、感謝を捧げることも祈りのひとつです。大きく言えば、人間の力を超えた存在 -キリスト教や多くの宗教では「神」と呼ぶ存在- を信じてその存在に語りかけることが、祈りと言えるのではないでしょうか。祈るというのは非常に人間らしい行為、精神性の高い行いだと思います。目の前にあるものを食べる、とか一緒にいる人とおしゃべりしたり遊んだりする、という即物的な行為を超え、今この場にいない人のために願ったり、予測できない未来のために希望を委ねるという姿勢だからです。

国際協力活動も祈りに似ている部分があります。貧しさゆえに、あるいは様々な事情で、不自由な暮らしをしている人々の、希望ある未来を願い求めることだからです。願うだけではなく、実際に活動もします。困っている人々に寄り添って、本当に必要な支援は何であるかを探り、そのための活動を組み立てます。そしてその活動のために必要な人材や資金を確保します。活動の途中では100%の成功の確約はありません。でも自分の行いの意義を信じ、寄附者の願いを信じ、相手の力や努力を信じ、実現させてくださる神様を信じて活動を続けていきます。これは決して他力本願になっているのではありません。何かがうまくいくときというのは、やはり人間の力を超えた存在が働いていると感じるのです。

ご紹介いただきましたように、私はチャイルド・ファンド・ジャパンという国際協力団体で働いています。チャイルド・ファンドは日本のスポンサーと呼ばれる方々から月々4000円の寄附をお預かりして、フィリピンやスリランカの貧しい地域の子どもたちの成長を支えています。特定のチャイルドをご紹介するので、手紙などで交流をすることもできます。女子学院のみなさんも、学院全体としてスポンサーです。昨年、皆さんの献金はスポンサーとしての支援金として活用され、フィリピンの2名の少女のハイスクール(中学高校にあたる4年制)卒業を支えて下さいました。フィリピンの学年末は5月ですので、彼女たちはもうすぐ支援を離れます。この2名のラブリーさんとクリスティンさんから皆さんへの感謝のお手紙が届いていますので、一部をご紹介します。

「スポンサーの女子学院の皆さん、こんにちは。私のハイスクールでの勉学を支えてくださりありがとうございます。皆さんの応援があったから、私は勉強面だけでなく、精神的にも成長することができました。皆さんのことはいつまでも私の心に残るでしょう。大学に行きたいですが、今すぐに進学する経済的ゆとりが家にはありません。でもいつか大学を卒業し、安定した仕事について家族を助け、弟妹の学費を出してあげたいと思っています。もう一度、私の人生の一部である皆さんに感謝します。ラブリー。」

もうひとりのクリスティンさんからも次のようなメッセージが届いてます。

「皆さんのご支援で私の家族はとっても助かりました。ありがとうございます。ハイスクールを卒業した後、確かな未来を切り拓いていくことが、ご支援くださった皆さんや私を応援してくれた両親への恩返しだと思っています。私のことを支えて下さって感謝します。神様が皆さんに豊かに報いてくださいますように。いつまでもお元気で。クリスティン。」

さて、今朝、聖書の御言葉と合わせて特に注目したいのは、ラブリーさんとクリスティンさんの手紙に込められた感謝の気持ちです。最初にご紹介したラブリーさんは、大学に進みたいけど今は家庭の経済状況が許さないのでしばらく我慢する、だけど大学で勉強したいのは、家族を支えるためだ、と言っています。自分が偉くなって尊敬されたいから、とか、ただ単にお金を儲けたいからではありません。自分が受けた支援を、今度は困っている別の家族、仲間にリレーしていきたいと言っているのです。2人目のクリスティンさんもおそらく同じような環境でしょう。ただし彼女はこう表現しています。支援を受けたものとして、これからしっかりした人生を歩んでいくことが、皆さんへの感謝の表し方だ、と。そして、自分がなにか直接お礼をすることはできないけれども、神様が皆さんを祝福してくださるよう祈ります、と。この気持ちは、文章上の言葉だけではなく、フィリピンの少年少女たちの心からの真実の願いであると思います。私は仕事で何度もフィリピンを訪れていますが、いつも多くの子供や家族から、このような感謝の言葉を預かります。

この、受けた恩、支援を、さらに別の困っている人にリレーする、というのはチャイルド・ファンド・ジャパンが設立された経緯にも関係しています。第二次世界大戦直後(1945年~)、日本には多くの戦災孤児があふれていました。戦争で親を亡くし、空襲で家を失った子供たちが路上にたくさんいたということです。そのような子供たちに温かい手を差し伸べてくれたのが、アメリカの民間団体、CCF(キリスト教児童基金)でした。CCFからの支援の受け入れ窓口として設立されたのがチャイルド・ファンド・ジャパンの元となった社会福祉法人の基督教児童福祉会です。やがて日本が経済的に成長し、海外からの支援はもう必要ない、自立できる、となった時、当時の事務局職員たちは、「これまで受けた支援を、今度は自分たちがもっと貧しい国の子供たちを支援することで、『順送りの恩返し』をしよう」と考えました。そして当時、状況の厳しい国で、しかも戦争中多くの人が犠牲になったフィリピンで、子供たちの支援を始めたのです(1975年)。 この『順送りの恩返し』とは、聖書にある『行って、あなたも同じようにしなさい』の言葉のことではないかと、私は解釈しています。つまり、今日の聖書の箇所である、「善いサマリア人」の譬話の最後の部分です。

ご存知の方も多いと思いますが、このたとえ話は、追いはぎ(強盗)に襲われた人が道端で瀕死になっているところを、最初に通りがかった祭司は見てみないふりをして通りすぎ、次に通りかかったレビ人(学問を修め、やはり偉い立場の人)も同じように何も手助けしないで通りすぎた、しかし3番目に通りかかったサマリア人(当時としてはむしろ社会的立場の低い人)が、できる限りのことをしてこの瀕死の人を助けた、というエピソードです。

イエス様が最後に言っている「行って同じようにしなさい」という言葉が強調されていることもあり、「よきサマリア人の譬話」と言われていることもあって、この話は、困っている人を差別せずに助けなさい、善行を積みなさい、という道徳的な観点で読まれることが多いと思います。あるいは反面教師的に、強盗に襲われた人を見ない振りして通り去った祭司やレビ人のようになってはいけないよ、という読まれ方もあるかもしれません。確かにそうです。イエス様もそう教えていらっしゃいます。けれどもこの譬話の中で、一人だけその気持ちや行いが描かれていない人物がいます。それは追いはぎに襲われた人です。この瀕死の人は、自分の責任の及ぶ範囲を超えて災難に遭い、苦しみ、このままでは生きられない、という状況にありました。そしてもうダメだ、自分はこのまま家族にも会えずやわらかい布団の上に寝かされることもなく、行き倒れるんだ、と諦めかけたそのとき、サマリア人の温かい介抱と支援を受けます。この瀕死の人こそ、やがて元気になったら、心からサマリア人に感謝をして、「行って同じように」するのではないでしょうか。 サマリア人の話を第三者的に理解するだけではなく、自分自身も、いろいろな場面で、あるいは歴史的な観点で、見ず知らずの人に世話になったり、愛情を注がれて生きる道を与えられていることを思うなら、その感謝の気持ちを今度は自分が行いとして形にし、別の状況で困っている人や次の世代にリレーしていこう、よろこびをつないでいこう、と思えるのではないでしょうか。

喜びは、つなぐものです。というか、つなぐことによってさらに大きな広がりを見せます。喜びは、独り占めすればそれだけで終わり、やがて消えてしまいます。けれども自分が受けた喜びを別の人につなぐことで、たとえば、受けた恩、愛情、支えを、自分の状況が良くなったときに順送りに返すことで、さらに多くの人が喜びに与ることができます。そして不思議なことに、わけ与えた喜びは減らないのです。つないだ喜びは、自分にも返ってくるのです。

そういう意味で、困っている人に手を差し伸べる、支援するという行いは、決してムダになることはないし、神様によって本当に意味のある成果をもたらし、豊かな実を結びます。そして、そう信じることも、祈りのひとつの形であると思います。

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