ひろしまの旅

7月19日(火)~21日(木)に高校1年生が「ひろしまの旅」に行きました。

1日目

平和記念公園

「原爆の子の像」の周辺には、折鶴を捧げるブースがあります。学年全員で折った千羽鶴を、ひろしま委員が代表して捧げました。

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
原爆死没者慰霊碑
原爆ドーム

ボランティアのガイドの方に案内をして頂き、碑めぐりをしました。

広島市平和記念公園レストハウスの地下室(被爆建物)

ヘルメットを着用し、少人数のグループで入りました。

2日目

被爆者の方の貴重な証言を伺いました。
被爆者の方はご高齢で体調がすぐれない方も多いのですが、
私たちのために時間を割いて、つらい体験を話してくださいました。
お話を伺った後は、感謝の気持ちを込めて、手作りのお土産をお渡ししました。
2日目の午後は14のグル―プに分かれてフィールドワークを行いました。
写真は、中国軍官区司令部防空作戦室跡(被爆建物)です。
その他、呉軍港、被爆者の方がいらっしゃる老人ホームなどを訪れました。

3日目

全体会

3日間の学びを全員で共有する「全体会」の時をもち、活発な議論がなされました。

※9月12日の高校礼拝で、生徒が「ひろしまの旅」の報告をしましたのでご紹介します。

「広島を学ぶ意味」  高1生徒

旅に行く前に全体にこのような課題が出されたのだが、私はかなり迷ってしまった。私は「原爆は恐ろしいもので、あってはならない兵器だ」という認識は前からあった。そして事前学習で原爆に関する多くの本を読んだことによりこの思いはさらに強くなった。しかし前からそう思っていた分、逆に、様々な過程を経て広島に原爆が落ちたという歴史からそれ以外に何を学ぶべきなのかがわからなかった。だから私は「今回の広島の旅の意味を探す」という目標を持ちながら広島の旅に臨んだ。この目標を立てた後、もっと具体的に学ぶことを考えたほうが良かったのではないかと思った。また広島の旅では実際に被爆された方々にたくさんお会いする。彼らは原爆について私たちにもっと知って、学んでほしいと思っているだろう。それなのに私はこんなに根本的なことを疑問に持ちながら彼らの話を聞いても良いのだろうか、という一種の罪悪感があった。しかし「広島の旅」を終えた私はこの疑問を持ったことを後悔していない。むしろ広島に行く意味を深く考えずに臨むより、疑問のままだったとしても考えていたほうが多くのことを吸収することができたと思う。

私は今回の旅で、自分の視野の狭さに気付かされた。私はフィールドワークで被爆された在日韓国人の方のお話を聞いた。その方は被爆前から日本人によって激しい差別を受けていたということを事前学習で知った。それほど苦しい思いをされた方は私たち日本人を恨んでいるだろうと思っていた。しかしお話をしてくださった金さんは、日本人を憎いとは思わないと話されていた。それどころか被爆直後に逃げる時、他の日本人を助けることができなかったことを何十年も後悔しているとおっしゃっていたのだ。彼のお話はそれまで私がお話を伺った被爆者の方々とほとんど変わりなかったのである。

そして彼はこの世から戦争、差別、侵略、核兵器を無くし、自分と同じ思いをしないですむように勉強してほしいと話していた。彼は日本人に限定せず、全ての人にこのメッセージを伝えようとしていた。このメッセージも被爆された方々の誰もが私たちに訴えていたことだった。被爆された方は国籍や被爆当時の状況の違いに関係なく、同じ思いを抱いているということを知ったとき、私は自分の視野の狭さに気付くことができた。

原爆が使われたのは広島が初めてだが、その発端となった戦争や差別は、人間の歴史において昔から繰り返されていたことだ。だから彼らの願いは広島に原爆が落ちるより、また日本人が韓国人を差別するよりずっと前に世界のどこかで誰かが訴えていることだったはずなのである。

人間は戦争から多くの過ちを学んだにもかかわらず、結局、戦争を現在まで繰り返している。それは国籍や地理的な遠さから無意識に人間を区別することで、同じ人間が犯した過ちを学ぶ障害を作っているからだ。私たち日本人は「した」または「された」ことにとらわれているが、より広い視野を持って他の国の状況・歴史にも目を向ける必要がある。私たちはそのためにまず、日本で起きたことを学び世界に発信していかなくてはならない。これが広島を学ぶ意味の一つなのではないかと私は考えている。

もう一つの意味を見つけたのは、資料館で原爆で命を落とした多くの方の遺したものを見た時だった。私はそれまで原爆で亡くなった方のことを考えることには限界があるのではないかと思っていた。私は彼らの「死」を耳にしただけでは「かわいそう」「原爆は許せない」といった彼らの死に対する後付けのような思いしか抱くことができなかった。また彼らが最期の瞬間に家族や友人を思うことができなかったのと同時に、彼らの家族や友人もまた彼らの最期を知ることはできなかっただろう。私はその深い悲しみは、時代も立場も異なる私が彼らを想像し、何かを思うこと自体に申し訳なさを感じていた。

しかし被爆当時の服、時計、黒こげの弁当など、彼らが「生きていた」証を見たとき私は原爆を学ぶなかで初めて「生」を実感した。彼らの「死」はあまりにも急で残酷で、耳にしたときはそれが私たちの頭に強く残るだろう。しかし彼らがそれまでは私たちのように家や学校という日常で、私たちと同じように、または私たち以上に将来に思いをはせながら生きていた。私たちが自分の得たことや感じたことを残しておきたいと思うのと同じように、彼らも自分の人生の中で考えたことを何らかの形で残したいと思っていたはずである。だから私たちは彼らが生きた証も心に留めなければならないのだ。

私は今回の広島の旅で、広島で起きたことに留まらず、国境や時代を超えた多くの人の思いを考える必要性を知った。そしてその上で、平和を世界全体の前提として築きあげていかなくてはならない。

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