学内ニュース

45年ぶりの大雪に見舞われました。女子学院のまわりはいつもと別世界。

中3は国語の授業で俳句を学び、俳句の実作に取り組みました。冬休みの宿題は自分のお気に入り作品を短冊に書き、皆で鑑賞しました。

1月22日(水)の ロングホームルームで、中1百人一首大会を開催しました。得意な札を逃すまいと、みな真剣な表情になっていました。場内の集中力が高まる中、一瞬の差を巡る戦いに、あちこちから歓声が上がりました。

1月25日(土)に中3クラス劇が行われました。

女子学院では毎年この時期に、卒業を控えた高3の生徒が、「女子学院に学んで」というテーマで講堂礼拝で話をしています。高3の生徒は、6年間聖書にふれてきた中で心に残っている聖書の箇所、讃美歌を自分で選んで心をこめて準備します。今回はその中から2人のお話をご紹介します。

中学講堂礼拝

聖書:ヨハネによる福音書15章12節~17節

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

今朝の聖書箇所は、高3である私達が、中学入学式の時に初めて出会った聖句です。私が選ばれ、すなわち JGで中高6年間を過ごす機会を神様に与えられた意味を、日々の学生生活を通して自分なりに考え続けてきました。今朝は、卒業を間近に控えている今、6年間のJG生活を振り返って思うことをお話ししたいと思います。

「女子学院は自由な学校である。」この言葉は皆さんも何度となく耳にしてきたことと思います。JGにおいては、あらゆる場面において「自由」が最大限尊重されています。「JG生は個性が豊かである」とよく言われますが、これも個性を発揮する自由、つまりありのままの自分でいる自由が与えられているからなのだと思います。6年間ありのままの自分でいる自由を与えてくれたJGに対し、感謝の気持ちでいっぱいです。 それでは、ここで言う「自由」とは何なのでしょう。中学生の頃は、私服で登校することや校則が少ないこと等といった表向きの自由を「自由」だと認識していました。しかし、高校生、特に高3に近づくにつれて、中学生の頃認識していた「自由」とは異なった、内面的な意味での「自由」を少しは理解できたように思います。ここでの「自由」とは、何をしても良いという、制限や規制を受けない自由というよりはむしろ、自分から何かを「する」ことを選択する自由というものに近いのではないかと思います。「自由」は人間にとってとても大切なものですが、時として人間関係や組織としての活動を円滑にするために、自分の自由を抑制して行動することが必要となります。私の場合、高1から高2にかけて1年間、班の運営に携わる中で、班全体や他の班員達の事情を考慮に入れつつ行動することが多く求められ、このように認識するに至りました。

JGでの6年間を振り返ると、JGは、あらゆる分野のあらゆる物事に全力で取り組む環境を私達生徒に提供し、私達の可能性を広げる選択肢を与えてくれたと感じています。その具体例として2つ挙げてみたいと思います。 1つ目は、学業にとどまらず、課外活動にも自主的に取り組む環境を整えてくれたことです。学生として学業を第一に据えるのは言うまでもありませんが、学業と課外活動は車の両輪のような関係であり、並立してはじめて大きな力が発揮され得るのだと思います。私自身部活動に積極的に取り組みましたが、これを通して得たことは数多くあります。例えば、皆で一つの作品を作り上げることができた時の達成感や、仲間と共に協力することの重要性だけでなく、目上の方と接する際の礼儀作法や集団において一人一人が自分の役割を全うすることがいかに大切であるかなども学ぶことが出来ました。さらに、授業だけでは得難い先輩・後輩といった縦の繋がりを得ることができたことも大きな収穫でした。部活動で学んだこれらのことは、今後生きていく上での私の糧となっていくと思います。 2つ目は、満遍なく勉強することができる環境を整えてくれたことです。私自身、高3になってからようやくこのことの意味を理解することができたように思います。高3では、高2までに積み上げてきた内容の応用的な問題を解くことが多くなりましたが、その際、他教科で学習した内容と組み合わせることで容易に理解することができる問題に幾度となく出会いました。例えば、英語の長文読解の問題を解く際に、歴史や物理等といった他教科の知識があることで、その文章についての理解が深く、かつスムーズになるという経験をしました。したがって、表向き無関係に見える分野同士でも、実は根幹の部分では繋がっていることが多く、思いもかけないところで関連があるのです。そのため、後輩の皆さんも、課された課題を一つ一つ着実にこなし、どんな教科でも食わず嫌いをすることなく、どんどん挑戦し、幅広い教養を蓄積してほしいと思います。皆さんが、JGという素晴らしい環境を活かして、学業と課外活動の双方に精一杯取り組み、自分の可能性を広げていけることを願っています。

私達JG生は、朝の礼拝から始まる一日を繰り返します。また、毎年ほぼ同じ行事が繰り返されていることから、新鮮味を感じられなくなってしまう時があるかもしれません。しかし私は、同じ活動や行事に対しても、年々感じ方が変わってきたように思います。高校生になると様々な面で責任感が増すため、比例するようにそれらに対する思い入れも強くなりました。特に高3になると、最後となる学校行事はより一層貴重なものと感じられ、だからこそ皆が一つ一つを大切にしようという思いを共有するようになりました。この生活サイクルが少しずつ変化しつつも繰り返され続けてきたことで、女子学院の伝統は紡ぎ出されてきたのではないでしょうか。卒業を控え、近いうちにこのサイクルから離れることを考えると、不安になると同時に、つらくも感じられます。裏を返せば、それだけ私のJG生活は充実し、かつ私にとってなくてはならぬものであったと言えるのだと思います。

今朝お読みした聖句を携えて、私達の6年間の歩みは始まりました。入学式は春の嵐に襲われ、あらゆる行事でことごとく雨に降られるために、「雨学年」の別名を持つ私達でしたが、雨にも負けず、この6年間で大きく歩みを進めることができたと思います。最初は角が尖った、目の粗い原石同士でした。しかし、ときにぶつかり合い、切磋琢磨し合う中で徐々に角がとれ、丸くなりました。その分、色とりどりで、それぞれ独特の光沢を持った、世界に二つとない石が美しい輝きを放っているように見えるようになりました。入学式の時に田中前院長先生が私達に贈って下さった、「あなた方は神様に選ばれて、この学校に入学したのです。」という言葉、ひいては今朝の聖句を、私は心の底から納得することができたように感じます。刺激を与え合い、共に成長することを許された、かけがえのない仲間達や、私達を常に優しく見守り続けて下さった先生方をはじめとする多くの方々に支えられ、中学・高校生活を無事に送ることができたことを、本当に嬉しく思い、感謝しています。これからも女子学院で学んだ多くのことを糧に、大きく羽ばたいていけたらと思います。

高校講堂礼拝

聖書 マタイによる福音書 6章 34節

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

入学して程無い私の心に強烈なインパクトを与えた文章があります。「ミスキャスト残念」というタイトルのその作文は、JG作文集に掲載されており、ちょうど6学年上の黄色学年の方が卒業にあたって書いたものでした。卒業を前にしながら「私はいわゆるJG生ではなかった」と言い切れる、これもまたJG生らしさなのではないかと思いつつ、私はどうなんだろう、私はミスキャストだろうかと中1ながらに考えました。あれから5年程経ち、自分が卒業を前にした今、もう一度あの作文を読みながら6年間を振り返ってみることにしました。

とにかく焦ってばかりの6年間でした。中学生から高校生にかけては、将来やりたいことを見つけられずに悩んでいました。周りの友人が、医者になりたい、国連で働きたい、と語るのを聞く度に、確固たる夢を持ちそれを堂々といえる彼らを尊敬しつつも、夢に向かって歩み始めている友人たちとノープランの自分との間に既に埋めがたい差があるのを悟って、気持ちが急いていたことを覚えています。部活や委員会の幹部になった時も、受験生になってからも、これからのことを考えすぎて、結果を出すことにこだわりすぎて、常に焦っていたように思います。今日の聖書箇所は、心の余裕が無くなって、焦燥感に押しつぶされそうになる時、いつも読んでいたものでした。先のこと何て考えたってどうにもならない、その時にどうせ悩むんだから今悩む必要はない、そう言い聞かせると少し気持ちが軽くなりました。

目の前のこと一つ一つに一生懸命であることがいかに大切か、JG生活を通して教えられたような気がします。私は無用な焦りのせいで切り捨ててしまったものが多くありました。部活で、委員会で忙しいから、受験が有るから、そう言い訳をしたことが何度有ったでしょう。「本当に忙しくて出来なかったのか」と問われれば、そうでもないのです。ただ焦りが先行しすぎて、先のことばかり考えすぎて、立ち止まって周りを俯瞰する余裕が無くなっていました。先や結果を見据えすぎずに目の前のことに一つ一つ一生懸命になることは、とても大事なことではないでしょうか。

出会いもこの姿勢から生まれて来るものだと思います。JGは狭い世界だとよく耳にします。確かに女子校だし、中高一貫だし、外から見れば圧倒的に狭い世界に違いありません。でもJG生活の中にも日常の中にも、私たちが気づかないだけで、出会いの可能性は無数に広がっているのではないでしょうか。部活や委員会の中で、授業で、礼拝で、友達との会話の中で、電車の吊革広告で。目の前のものに少し積極的になるだけで得られる出会いは、沢山あるのではないかと思います。

私が初めて歴史の授業を50分間真面目に聞いたのは、中2の4月でした。悲しいことに、中1の授業にはただ眠かった記憶しか有りませんし、心を入れて聞く気になったのにも、パレスチナの現状を本で読んだことで歴史を学ぶ必要性を感じて…のような格好いい理由が有ったわけではありません。追試や補習の常連と化していることへの危機感が、進級を前にようやく生まれてきたからでした。しかし安易な理由で何となく聞き始めた授業でしたが、いつの間にかすっかり夢中になっていました。先生も中1の時と同じだったので、この時に聞こうと思っていなかったとしたら世界史が面白いと感じることはまだしも、大学で西洋史を専攻したいと思うことなんか無かったでしょう。当時は進路のことなど考えてもおらず、学校のカリキュラムに世界史の授業が無かった2年間、継続的に自ら学んだわけでもありませんでしたが、初めて興味を持った学問として、授業の記憶は楽しかったという感触と共に私の中に存在し続けており、進路を考えはじめ悩んだ末にふと思い出したのが中2の時の記憶でした。高2での授業の中で世界史を学ぶ意義を考えさせられ大学で専攻しようと決めてからは、理系を勧める両親に姿で示したいと思ったこともあり、そして楽しくて仕方が無くて、ひたすら没頭するようになりました。高3になってから他科目の成績に焦ることにはなりましたが、実際に目で見て感じる経験を大事にしながら積極的に勉強した高2の1年間は非常に大切な時間でしたし、必要以上の勉強をしたいと思わせてくれるような学問との出会いはとても感謝すべきものでした。

大げさですが、授業を聞いたことで得た世界史との出会いは私の将来を変えました。少なくとも私が生きてきた18年間の中で考えれば、そして理系科目の方が成績が良かった私にとっては、確実に転機となる出会いでした。しかしそれは劇的なものではなく、少しの積極性から生まれ得た些細なものでした。結果や効率だけを重視するのではなく、身の回りに少し注意を払って好奇心の向くままに行動してみるだけで、見える世界は大きく広がっていく、そのことをJGで日々実感させられたように思います。

また無いものを羨むのではなく今与えられている中で出来ることを探していくことの重要性も学ぶことができました。私は外国に行ったことが有りません。世界史に興味を持ち始めてからはずっと、ヨーロッパやイスラーム圏に行ってみたいと思い続けてきました。しかし一方で日本にいても出来ることが沢山有ることにも気付かされてきました。東京でもモスクやギリシア正教会があり見学することが出来るし、講演会や大使館のイベントに参加もできます。民族料理も食べられるし、数は少ないもののマイナーな国の文学にも邦訳が有ります。受け身にならない姿勢が有れば、日本にいながら各国のことを知る機会も感じる機会も得ることが出来るのです。勿論実際に行くのに勝ることはないでしょう。しかし、それが叶わないなら叶わないで何か方法があるはずです。「今」はどうしたって変えることはできないのだから、その中で前向きな気持ちで何ができるか考える、これは人についても言えることだと思います。昨年の春の修養会のノートを眺めていたら、「今の自分を受け入れて大人になっていく」という発言があり強い共感を覚えました。今の自分を変えることはできないから、自分を責めすぎず、かといって周りのせいにもせず、そのままを受け入れて、その上で目の前のことを一つ一つ解決していく、その姿勢の大切さを身を以て感じてきたからです。私はずっと自分を好きになることも、前向きになることもできないできたからです。

中1以来、「ミスキャスト」という言葉は不思議と私の中に残り続け、今まで何度となく自分に問うてきました。親の希望でJGに入ったこともあり、自分の意志で入学した友人たちとは初めから差を感じていました。「JGは自由なんかじゃない」と反発することも無かったし、かと言ってJGがとても好きだった訳でも無かったからです。特に秀でた部分も無いし、性格が凄くいい訳でもないし、JG生との意識の差も事ある毎に感じているけれどミスキャストだなんて言える勇気もない、こんな中途半端な私がまさにミスキャストなんじゃないだろうかと、いつも思っていました。

今、再び「本当に自分はミスキャストだったのか」と問われても、首を横に振る自信は有りません。それでもただひとつ、確かに言えるのは、私はJGで学べて本当に幸せだったということです。勉強嫌いだったのに好きだと言える授業が沢山有りました。部活、委員会で成長できた部分も多く有りますし、何より素敵な人に沢山出会えました。ミスキャストかミスキャストじゃないかなんて関係無いと思うのです。色んな人がいて、様々な価値観や見方をする人がいて、JGを好きな人も嫌いな人もいて、自信がある人も自分を好きになれない人もいて、それでも絶対に自分のそのままを認めてくれる人がいる、それがJGだと思っています。少なくとも、私にとってのJGはそんな場所でした。自分のことが嫌いでたまらなくなったら、居場所を感じられなくなったら、一度立ち止まって周りを眺める余裕を持ってみて下さい。そのままの自分を受け入れ祈ってくれている人がきっといると思います。

最後に、高2の1年間も短く感じられましたが、高3の1年間は本当にあっという間でした。きっと皆さんが思っているよりずっと早く卒業が近付いてきます。JG生でいられる時間をどうぞ大切にして下さい。残りのJG生活で素晴らしい出会いが沢山有りますよう祈っています。

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